「大人になった」Jリーグからの心のこもった祝辞
元JFA会長がいる、元Jリーグチェアマンもいる、元日本代表監督だっている。普段は「社長!」「監督!」と呼ばれている人たちも、この日ばかりは若輩者扱いの呼び捨てだ。何とも不思議な空気が、そこには広がっていた。6月9日、都内のホテルにて開催された『日本サッカーリーグ(JSL)発足50周年パーティ』での光景。この日は、かつての選手や指導者、リーグ関係者や審判、そしてメディアやサプライヤー関係者など、およそ700人近い「サッカー人」たちが集い、昔話に花を咲かせていた。
JSLとは、Jリーグ開幕からさかのぼること28年前の1965年(昭和40年)に開幕した実業団サッカーの全国リーグである。今の若いサッカーファンでも、何となく「Jリーグの前身となったリーグ」という認識はあるだろう。あるいは「JSLって、要するに『日本サッカー冬の時代』のことでしょ?」とネガティブなイメージを抱く人もいるかもしれない。確かに70年代から80年代にかけて、スタンドに閑古鳥が鳴いていたのは事実だし、そうした危機感からプロ化に向けた動きが一気に加速したのもまた事実である。しかしながら、それらはJSLの一面でしかないことは留意すべきだ。
意外と知られていないことだが、JSLはアマチュア競技における最初の全国リーグである。当時、バレーボールもバスケットボールもラグビーも、全国リーグというものは存在していなかった。サッカーの次に全国リーグをスタートさせたのは、意外にも(と言っては失礼だが)アイスホッケーで66年。その次がバレーボールとバスケットボールで、いずれも67年。ハンドボールは76年。ラグビーにいたっては『ジャパンラグビートップリーグ』が誕生する2003年まで待たねばならない(ラグビーには他の球技とは異なる特殊事情があったようだが、門外漢なのでこれ以上の言及は控える)。当時、プロ野球以外に全国リーグを運営する競技団体が存在しなかったことを考えると、JSLの先進性は目を見張るものがあった。
JSL設立の契機となったのは、前年の東京五輪で日本代表のコーチを務め、のちに「日本サッカーの父」と言われたデットマール・クラマー氏。クラマー氏は、日本サッカーが強くなる5つ条件のひとつに「全国リーグの設立」を挙げていた(それまでは天皇杯などのカップ戦しかなかった)。競技力の向上を目指すのであれば、全国レベルで定期的に試合をすることが不可欠。とはいえ、社業第一のアマチュアゆえに、週末に地方で試合をする苦労は並大抵ではなかった。古河電工でプレーイングマネージャーとして活躍し、のちに日本代表監督、さらにはJFA会長となる長沼健氏(08年に死去)は、JSL黎明期の思い出をこのように語っている。
「その頃、ちょうど新幹線ができたのが大きかったね。日曜日に大阪で試合があるとするでしょ。その結果が月曜日の朝刊に出るんだけど、僕らはそれをオフィスで読むことができたんだよね。同僚が不思議そうに見ていましたよ(笑)」
JSL開幕時に参加した8チームには、いわゆる「丸の内御三家」と呼ばれた古河電工、三菱重工、日立製作所のほかに、ヤンマー(大阪)、東洋工業(広島)、八幡製鉄(北九州)といった、東京から見て遠方にあるチームも存在した。65年当時、新幹線は東京から新大阪までしか開通していなかったが、この高度成長期の象徴がJSL開催を力強く後押ししていたという事実は興味深い。当時の記録によれば、東京・駒沢で行われた日立対名古屋相互銀行によるJSL開幕戦では、4500人もの観客が集まったという(今で言えばJ2並みの数字だが、当時としては大観衆であった)。JSLの登場は、日本に最初のサッカーブームを呼び起こし、そして68年メキシコ五輪での銅メダル獲得へとつながってゆくことになる。
その後、JSLは27シーズンが開催されて92年に閉幕。翌93年には日本初のプロサッカーリーグであるJリーグが華々しくスタートした。80年代後半から90年代初頭にかけてのプロ化の流れは、今では歴史的必然としてサッカーファンの間では広く認識されている。企業スポーツやアマチュアスポーツのままでは、興行面でも強化・普及の面でも限界があるのは明らかだった。
加えて、奥寺康彦や木村和司を嚆矢とする、実質的なプロ選手(当時は『スペシャル・ライセンス・プレーヤー』という名称)の増加により、実業団リーグそのものが形骸化していた。頑なにプロ化を反対する勢力もあったと聞くし、声高に反対はせずともプロ化の成功を疑問視する声も少なくはなかっただろう。しかし結果として、93年に開幕したJリーグは(いくつかの挫折や反省点はあったものの)、順調な発展を遂げて今に至っている。
さて、今回の50周年パーティでは、JSL黎明期を支えた4人の功労者が、村井満Jリーグチェアマンによって顕彰された。当然、皆さんご高齢である。西村章一氏(初代総務主事)が90歳、耳野篤廣氏(競技運営)が81歳、西本八壽雄氏(総務)が80歳、最も若い本間良一氏(競技)で79歳である(いずれも当日での年齡)。もっと早く、たとえば95年に「JSL30周年」を祝して、この人たちの功績をたたえることはできなかったのであろうか──。おそらく当時は、そんな雰囲気はほとんどなかったのだろう。
Jリーグがスタートして間もない頃、JSLは「過去の遺物」として論じられる傾向が少なからずあったように記憶する。脱アマチュアリズム、脱企業スポーツを掲げ、プロフェッショナリズムとワールドスタンダード、そしてエンターテイメント性とヴィジュアル的なカッコよさを貪欲に追求していた当時のJリーグ関係者にとって(そしてJリーグによってサッカーの楽しさに目覚めたファンにとっても)、いささか古色蒼然としたJSLに対しては「冬の時代」の記憶と相まって、何となく忘れたい過去として認識されていたのではないか。
もっとも、JSLがなければその後のJリーグがあり得なかったのもまた、紛れもない事実である。日本で初めてアマチュアスポーツによる全国リーグを立ち上げ、それを27シーズンにわたって途切れることなく維持し続け、そこで培われたノウハウやインフラや人材は、その後のJリーグにも確実に受け継がれることとなった。初代Jリーグチェアマンとなった川淵三郎氏をはじめ、Jリーグの制度設計に携わった人々もまた、いずれも選手や指導者や裏方としてJSLに深く関わってきた人たちばかりである。
JSLという「親」がなければ、Jリーグという「子」は生まれなかった。93年を境として、日本のサッカーをめぐる風景が激変したのは事実だが、「親」であるJSLが果たしてきた功績についても、そろそろきちんと評価されてしかるべきではないか──。そんなサッカー界の空気が、今回の50周年パーティに結実したように感じられる(発起人とされる村井チェアマンも「そろそろJSL50周年だね、という話題が同時多発的に広がって今回のパーティ開催につながった」と語っている)。
Jリーグは今年で23年目。無理やり人間に喩えるなら、大学を卒業して就職する年齡である。学生時代は父親に対して「考えが古臭い」などと反発してきたが、実際に社会の荒波にもまれているうちに「オヤジって、実はすごかったんだなあ」とか「今のオレがあるのはオヤジのおかげだよなあ」などと考えを改め、社会人の先達たる父親をリスペクトしはじめる年頃だろう。パーティ会場に訪れた諸先輩たちを甲斐甲斐しくエスコートするJリーグのスタッフの姿を見ていて、あらためてJSLからJリーグへと連なる「親子の絆」のようなものを強く認識させられた。
今回のJSL設立50周年パーティは、「オヤジ、今までありがとう。そして、おめでとう!」という、ちょっと照れが入っているものの「大人になった」Jリーグからの、心のこもった祝辞であったと個人的には思っている。