豊臣秀吉に屈したうえに、完全に篭絡された織田信雄のその後
今回の「どうする家康」では、豊臣秀吉が徳川家康・織田信雄と有利な条件で和睦を結んだ。その後、信雄は完全に秀吉に篭絡されたので、その経過を確認することにしよう。
天正12年(1584)11月、秀吉は家康・信雄と和睦を結ぶと、翌年1月、信雄のもとに名代として、弟の秀長を派遣した(「渡邊文書」など)。それは、信雄の上洛に関する件であった。対応したのは、信雄の家臣・飯田半兵衛だった。
2月6日、信雄の妻が病気に罹ったので、医師の竹田定加が信雄のもとに行こうとした(「東京国立博物館所蔵文書」)。秀吉はこれを許可したので、両者のわだかまりは解消したのは疑いない。
天正13年(1585)2月10日、秀吉は来る15・16日に信雄が上洛することを受け、石清水八幡宮(京都府八幡市)惣中に道の普請を命じた(「片岡文書」)。秀吉は信雄を屈服させたとはいえ、いちおうは主君筋にあたるので配慮を示したのだろう。
しかし、信雄の上洛日程が定まらなかったようだ。徳川家康は信雄の家臣・滝川雄利に書状を送り、上洛するのか否かを尋ねている。同じく秀吉に屈した家康は、信雄の動きを注視していた。
信雄が大坂に向かったのは、2月22日のことである(『顕如上人貝塚御座所日記』など)。秀吉は到着した信雄をもてなし、茶や能などを楽しんだ。信雄の方から秀吉を訪問したのだから、名実ともに臣従したといえよう。この直後、信雄は大坂を出発すると、京都へと向かったのである。
2月26日、信雄は上洛すると、正三位・権大納言に叙位任官された(『公卿補任』など)。『光豊公口宣案之写』には、興味深いことが書かれている。これまで信雄は五位の中将だったが、秀吉の申し入れによって、一気に正三位・権大納言まで昇進したのである。
内々に秀吉が信雄の昇進を申し入れたことは、『兼見卿記』にも書かれている。信雄は昇進に際して、朝廷などにお礼の金銭を進呈した。ここで注目すべきは、秀吉が官職の斡旋を行ったことである。
秀吉は信雄を懐柔することにより、家康の上洛を促そうとしたのだろう。家康も秀吉から上洛を促されていたのではないか。それゆえ、秀吉は自身の従三位・権大納言を上回る地位を信雄に与えるよう、朝廷に申し入れた。
ただし、両者の立場は翌月に逆転し、秀吉は正二位・内大臣に叙位任官された(『公卿補任』)。これにより、秀吉の地位は信雄を上回ったのである。
すでに秀吉は京都支配を任されていたが、信雄に官職を斡旋しうる立場にまでなっていた。そして、自身も正二位・内大臣という高位高官を手に入れ、もはや天下人としての地位は揺るぎないものになったのである。秀吉は、朝廷との信頼関係もしっかり築いていたようである。
秀吉は信雄を臣従させることに成功したので、いよいよ家康を臣従させることにターゲットを絞ったのである。家康が秀吉に臣従するのも、すでに時間の問題だった。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)