パレスチナ人監督が描く世界の「パレスチナ化」 エリア・スレイマンのカンヌ受賞作『天国にちがいない』
国際的に有名なパレスチナ人監督のエリア・スレイマン監督の最新映画『天国にちがいない』の東京の劇場公開が始まった。監督自身がしゃべらない観察者として登場し、次々と不思議で不可解なエピソードを見せる独特の手法で、“ブラック・コメディ”と称される映画を撮り続けてきた。今回は故郷のナザレを出て、パリやニューヨークに滞在するという設定。監督が描こうとしているのは「世界のパレスチナ化」だ。
『天国にちがいない』は2019年のカンヌ国際映画祭で特別賞と国際映画批評家連盟賞をダブル受賞した。東京都内での劇場公開に先立って2020年10月―11月に開かれた21回東京フィルメックスのクロージング作品としても上映された。
映画ではまず、監督の故郷であるイスラエルの北部にあるアラブ人の都市ナザレを舞台としたシーンが続く。ナザレはキリストが子供時代を過ごした町として知られ、いまでもキリスト教徒が多く、スレイマン監督もキリスト教徒である。
監督が人気のない通りを一人で歩いていると、前からこん棒や銃を手にした10人ほどの若者たちが道に広がって監督の方に走ってくる。監督は横や後ろを見るが、誰もいない。監督は後ろを向いて立ち去ろうとし始め、振り向いたとき、若者たちは監督の左右を駆け抜けていく。誰か別の人間を追いかけているのだろう。
私はこの場面を見て中東で全く同じ場面に出会ったのを思い出した。2011年2月初めにエジプトの「アラブの春」の真っ最中に、カイロの中心部のタハリール広場近くで、前からこん棒を持った若者たちが駆けてくる。まだムバラク政権が倒れる前で、政府系か、反政府系か分からない。政府系の若者集団は外国人ジャーナリストを敵視していた。私は恐ろしくなって踵を返して逃げ始めた。しかし、カメラバッグが重い。追いつかれると思った時、若者たちは私の左右を追い抜いて行った。ちょうど10年前のことだ。
スレイマン監督は映画で描くエピソードは、自身の実際の経験によるものが多いと語っている。ナザレの町で、二人の警官が大型スクーターを止めて、小さな双眼鏡をのぞいて、歩いてくる一人の男を見ている。男は警官たちの前までくると、手に持った飲み物のビンを建物の石壁に思い切り投げつける。警官はスクーターにのって何もなかったかのように立ち去る。イスラエルではどこでも警官が住民に目を光らせていることを風刺したものだろう。
監督はナザレを出て、映画企画のプロモーションをするためにパリとニューヨークに出発する。パリのシャンゼリゼ通りと思われるカフェのテラス席に座り、通りを見ている。着飾って歩くファッションモデルのような女性たちに目を奪われる。映画のタイトル通り、「天国にちがいない」という顔だ。
宿泊しているアパルトマンの通りを隔てた向かいのビルの部屋はマネキンが並ぶブティックである。閉店後の夜の間も、店の壁にかかった大型スクリーンではファッションショーの映像が流れている。いかにもおしゃれなパリである。
しかし、翌朝、アパルトマンの下の通りで若い男が通りを走り抜けていく。その後を、セグウェイに乗った3人の警官が唸る機械音を響かせて後を追いかけていく。朝の教会の前には2人の尼僧が朝食を配布するテーブルが置かれている。その前に長い列ができていて、一人ずつ粗末な朝食を受け取っている。向かいのブティックでは閉店後、掃除のカートを押す黒人女性の清掃人が掃除を始める。ファッションショーの映像と清掃人の姿が繰り返し交差する。
スレイマン監督が見せるのは、パリの貧困者、外国人労働者、警官という華やかなパリの裏の日常である。そこにブラックなユーモアがある。街角の歩道に布団を置いて寝ているホームレスの男性のわきに救急車が止まる。降りてきた女性救急隊員が男性に体調などを聞いた後、ミネラルウォーターのボトルを与えた後、「食事はビーフかチキンか」とか「飲み物はコーヒーか、ティーか」と聞く。男性は「コーヒー」などと答え、もう一人の男性救急隊員がポットでコーヒーを注ぎ、朝食パックと一緒に男性に渡す。女性隊員が「ボナペティ」と明るくいう。ホームレスの支援が、航空機の客室乗務員の対応になっていることに思わず笑ってしまう。
スレイマン監督がパリの中心部を歩いていると、フランス銀行と書かれた建物の前を、迷彩色で塗られた大きな戦車が次々と通り過ぎていく。空には戦闘機が編隊飛行をし、通りの上をヘリコプターが飛んでいる。町には警官がいたるところにいて、いつも誰かを追っている。監督が歩道にはみ出したカフェのテラスに座っていると、5人の警官がはみ出している部分の幅や長さをメジャーで測りり、店のオーナーに「大丈夫だ」と言っている。
カンヌ映画祭で受賞した後の記者会見で、スレイマン監督は映画に込めたメッセージは何か、と質問されて、「70年間、パレスチナが苦しんできたことが、いま世界で広がっている。この映画は地球規模のパレスチナ化を警告している。そのことを示すために、主人公が(パレスチナから)場所を移動しているのだ。それは国家の強権化であり、暴力の蔓延であり、警察国家である」と語っている。
別の映画サイトでのインタビューでは、パリを光と陰のコントラストを描いたことについて、監督は「パリの本質を暴くことは、底辺にいる人々や抑圧されている人々、ホームレスの人々、貧困者、警察に追われるアラブ人、そして警察国家を暴くことだ。この映画は基本的に階級と経済の格差、移民、不安と暴力についての映画である」と語っている。
監督の描いている「世界のパレスチナ化」は、戯画化されたものではあるが、貧富の格差の拡大や社会の武装化、警察国家化など、世界の実相を映している。ニューヨークでスーパーマーケットに入っていると、買い物客がみな自動小銃やライフル銃を肩にかけている。男性だけでなく、ベビーカーを押している若い母親も背中に背負っている。レジの横には機関銃が置かれ、レジの店員も銃を背負っている。店の外に出ると、歩道を歩く人々がみな自動小銃を背負っている。
このシーンは米国で武器が蔓延している状況を戯画化しているのだろう。その一方で、このシーンを見て、私はエルサレムに駐在した時のイスラエルのことを思い出した。ユダヤ人が住んでいる西エルサレムでは兵士やユダヤ人入植者が自動小銃を背負って町を歩き、スーパーマーケットで買い物をしている。パレスチナを占領し、そこに入植地をつくり、日常的にパレスチナ人を抑圧しているイスラエルでは、ユダヤ人の間に自動小銃があふれる生活が日常化している。スレイマン監督がパリとニューヨークで戯画化して描いていることは、パレスチナ/イスラエルの日常なのである。
パレスチナ人は70年間、難民状況に置かれ、占領下におかれてきた。米国やフランスを含めて世界がパレスチナ/イスラエル問題を本気で解決しようとしなかった結果でもある。パレスチナ人が置かれた難民状況も占領状況も何も変わらないのに、2020年にはアラブ首長国連邦(UAE)、バーレーン、スーダン、モロッコなどアラブ諸国がトランプ大統領の仲介で次々とイスラエルとの国交正常化に合意した。アラブ諸国にとってさえ、パレスチナ問題は解決すべき問題ではなくなり、日常的に存在する問題となっている。
ニューヨークの映画会社に企画を持ち込む場面では、友人の映画監督が、現れた映画会社の女性担当者に「彼はパレスチナ人の監督で喜劇をつくっている。彼がいま手掛けているのは中東での和平ということなんだよ」と紹介する。その担当者から「それは滑稽ね」と一言で片づけられてしまう。
世界にとっては、パレスチナ問題は問題ですらなくなっている。世界にとってパレスチナ問題が日常のありふれた出来事になっている時、世界の日常がパレスチナ化している。スレイマン監督がカンヌ映画祭の受賞後の記者会見で語った「地球規模のパレスチナ化」ということである。
ここで断っておかねばならないことがある。スレイマン監督が「パレスチナ」という時、それはイスラエルと対立するパレスチナ自治政府の立場ではないということだ。監督は中東和平の目標とされる、パレスチナ国家が独立し、イスラエルとパレスチナが国家として共存するという「二国家解決案」を支持しないという立場を繰り返し語ってきた。
2012年にチェコ・プラハでのインタビューで「私は国家というものを信じてはいない。だからパレスチナ国家があるべきだとは考えない。すべての権力が絶対的に腐敗するとなれば、パレスチナもその中に含まれるだろう」と語っている。さらに別のインタビューでは、「二国解決案はすでに過去のものだ。ユダヤ人とパレスチナ人は結局、一緒に暮らす必要がある。それも平等に、差別のない状況で」とも語っている。
監督は「パレスチナ人」を自称するが、イスラエルにあるナザレの住民であり、国籍はイスラエルである。イスラエルには人口の20%のアラブ系市民がいる。アラブ市民はイスラエルで二級市民の扱いを受けていて、イスラエル人という意識よりも、「パレスチナ人」という認識が強い。この「パレスチナ」はヨルダン川西岸にパレスチナ国家の独立を求める「パレスチナ」ではなく、1948年にイスラエルが独立する前にアラブ人としてパレスチナ地域に住んでいた「パレスチナ」と言ったほうがいいだろう。
現在、「パレスチナ」と言えば、パレスチナ自治政府があるヨルダン川西岸とガザである。それはスレイマン監督のようにイスラエルのナザレに住んでいる「パレスチナ人」は含まれていない。1948年のイスラエル建国で故郷を追われたパレスチナ難民の多くが現在のイスラエルのアラブ人の町を追われたパレスチナ人であり、彼らの要求は、ヨルダン川西岸に建設される「パレスチナ国家」に帰還することではなく、現在のイスラエルにある自分たちの「パレスチナ」に帰還することである。
スレイマン監督がパレスチナ問題という時には、イスラエルの占領されている西岸とガザのパレスチナ人、イスラエルに併合された東エルサレムのパレスチナ人、イスラエルに二級市民として暮らすパレスチナ人、70年前に「パレスチナ」を追われて、いまも帰還を求めるパレスチナ難民――というすべてのパレスチナ人を含む問題である。さらに、「パレスチナ」に存在するイスラエルという国や、そこに暮らすユダヤ人も、監督がいう「パレスチナ」に含まれているのだろうと、私は考える。
監督はプラハでのインタビューで「私はパレスチナは世界の縮図だと考えようとしてきた。しかし、多分、世界がパレスチナの縮図なのだ」と語っている。つまり、パレスチナ/イスラエルで起こっていることは世界の矛盾を反映していると考えるのではなく、パレスチナ/イスラエルの矛盾が世界中に拡大しているということである。
この映画が公開される前年の2018年にトランプ前大統領はパレスチナ難民の救援活動をしている国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)への資金拠出を全面的に中止した。「難民を支援し続けるから難民問題が終わらない」というのはイスラエル政府の主張だったが、UNRWAの最大の資金拠出国の米国が資金提供を中止したのである。
パレスチナ問題はもう終わりだ、というのがトランプ前大統領のメッセージである。前大統領が2020年1月に発表した中東和平構想にも「パレスチナ難民のイスラエルへの帰還権は認めない。パレスチナ難民の難民としての地位はなくなり、パレスチナ難民キャンプは解体され、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は消滅する」と記されていた。その提案にアラブ諸国の多くは受け入れ、その後の国交正常化の動きにつながった。
米国もアラブ諸国も、パレスチナ問題を終わりにしようとしている流れの中で、スレイマン監督は『天国にちがいない』を世界に向けて送り出した。世界が、パレスチナ問題を未解決のまま、存在しないことにしようとしている間に、世界中がパレスチナ化するというパラドックス。この映画そのものが、ブラック・コメディなのである。
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※1月29日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開
※すべての写真は配給元からの提供です。クレジットは以下の通り。
2019 RECTANGLE PRODUCTIONS – PALLAS FILM – POSSIBLES MEDIA II – ZEYNO FILM – ZDF – TURKISH RADIO TELEVISION CORPORATION
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<追記>
2020年の東京フィルメックスでは、『天国にちがいない』の上映後、パリにいるスレイマン監督とインターネットを通じて、約30分間、観客と質疑応答するという画期的な試みが行われた。観客は座席からそれぞれ携帯経由で質問を送り、進行役が選んで監督に質問して、監督が答えた。
様々な質問があったが、パレスチナ問題が絡む質問は一つもなかった。日本の観客がパレスチナ問題に疎いためなのか、または政治的な問題で質問する“不作法”を控えたのか、または司会者がそうだったのか。私はもちろんパレスチナ問題との関係で質問したが、選ばれなかった。スレイマン監督と東京からリモートで質疑応答をしながら、パレスチナ問題に関連する質問が全くでないのは、日本でのパレスチナ問題への関心の薄さと監督に受け取れられなかっただろうかと思った。
一方、 フリー百科事典『ウィキペディア』日本版で、エリア・スレイマンの項目では、「イスラエルの映画監督・俳優」と記述されている。略歴にも「パレスチナ」の文字はない。ウィキペディアの英語版、アラビア語版には「パレスチナ人の映画監督」とある。フランス語版には「キリスト教徒のアラブ系イスラエル人の監督で、本人はパレスチナ人だと考えている」と詳しい説明がある。
フィルメックスでの監督との質疑応答といい、ウィキペディア日本版の記述といい、日本人の意識の中には「パレスチナ」という言葉は存在しないのだろうかと危惧する。