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ハマス政治指導者シンワル氏殺害でハマスとガザはどうなる? 軍事から政治への転換へ

川上泰徳中東ジャーナリスト
2024年4月にガザで演説するシンワル氏(写真:ロイター/アフロ)

 イスラエルは17日、ハマスの政治局長ヤヒヤ・シンワル氏殺害を発表した。7月に前任のハニヤ氏がイランで暗殺された後、選任され、ハマスの政治指導者としては強硬派と言われた同氏の死について、新聞、テレビでは「ハマスの弱体化」「組織の危機」という報道が多かったが、本当にそうなのか。シンワル氏殺害の意味と、ハマスとガザの今後を考えてみたい。

 まず、シンワル氏殺害でハマスが弱体化するかどうかについては、組織の戦略の転換を促すが、それでハマスが弱体化するとは考えていない。ハマスは1987年の創設以来、ガザやヨルダン川西岸のイスラエル占領下で政治活動、社会活動、武装闘争と行ってきた。これはかつて武装闘争をしていたころのパレスチナ解放機構(PLO)が、指導部も、戦闘員もパレスチナ外にあってのとは異なる。その結果、これまで軍事部門のカッサーム軍団を率いてきた総司令官は今年7月に死んだデイフ氏まで全員イスラエルの暗殺作戦で死んでいる。ガザにいた政治部門の指導者も、アフマド・ヤシーン師やナンバー2のイスマイル・アブシャナブ氏ら幹部が暗殺作戦で殺害された。

指導者の運命としての暗殺

 つまり、ハマスの指導者は指導者になった時点からイスラエルに殺害されることが運命づけられているということである。それでもハマスがイスラエル占領下で組織を維持してきたということは、指導者が暗殺されても組織が弱体化したり、つぶれたりしない構造になっているということである。その構造の一つとして、ハマスは1990年代初めから、政治部門をパレスチナ外に置いてきた。それでも7月に殺害された政治局長のハニヤ氏のようにイランで暗殺された。その後に選出されたシンワル氏は、ガザにいたわけで、ハマスにとってシンワル氏が殺害されることは「時間の問題」だっただろう。

 シンワル氏の死後、AFP通信がハマスの政治局は新たな政治局長を来春まで選出せず、当面はメシャアル元政局長やガザや西岸の政治局の代表ら5人でつくる政治委員会が政治決断をすると報じた。この政治委員会は、シンワル氏が政治局長になった時点で、シンワルとの連絡が付きにくいことからカタールに作られたとする。シンワルがカタールと連絡をとれば、確実にイスラエルと米国の情報収集網に傍受され、位置を確認をされるため、直接連絡をとることはできなかっただろう。

指導者の「殉教」で完結

 ハマスの政治局機能はカタールやレバノンなど海外にあるため、ガザで潜伏して、イスラエル軍の攻撃から隠れているシンワル氏は連絡をとることもできない状態では、政治の指揮をとることもできない。シンワル氏はあくまで象徴的な存在として、政治局長に選任され、象徴としてはイスラエルに殺害され「殉教者」になったことで完結した、と考えるべきであろう。ハマスの闘争の象徴としてのシンワル氏の「殉教」は、戦闘員やメンバーの士気を高めることになるだろう。 欧米や日本のメディアが「ハマスの弱体化」ととらえるのは、イスラムを掲げるハマスの実態や意識を知らないからだとしか思えない。

 ハマスの政治局長は1990年代初め以来、海外にいるのが常態だった。それは1987年12月の創設前後から始まった軍事部門のイスラエル兵士殺害と、イスラエルに協力したパレスチナ人の殺害によって、1988年から89年にかけて、初代の政治局長のヤシーン師をはじめ、ほとんどの幹部や活動家を含む1000人以上のメンバーが投獄され、文字通り、組織の存続に危機に直面した。

海外の政治局は組織防衛

 90年代初めに、米国在住のハマスメンバーのイスマイル・アブマルズーク氏が組織の立て直しを行い、それまで資金援助など側面支援だった海外組が、政治方針を決定する「政治局」を主導することになった。それによって、イスラエル軍による占領地での制圧作戦によってガザのハマス組織が壊滅されないようにしたものだ。アブマルズーク氏 は初の海外組の政治局長となり、次がヨルダン川西岸出身でクウェートに移ったハーレド・メシャアル氏だった。

 ※8月に刊行した『ハマスの実像』(集英社新書)ではハマスの組織や成り立ちについては詳述している。

 ハニヤ氏はガザでずっと活動してきた国内組だったが、政治局長に就任後、ガザを出てカタールに移った。ハニヤ氏が暗殺された後、シンワル氏が政治局長に選出されたことは、シンワル氏以外に、大衆を動かす政治指導者がいなかったということである。「シンワル後」のハマスを考えるために、シンワル氏がどのような指導者だったかを知る必要がある。

越境攻撃の「首謀者」は間違い

 シンワル氏の殺害について、日本を含め世界のメディア はシンワル氏が2023年10月7日のハマスの越境攻撃の「首謀者」と報じているが、それは間違いである。ハマスでは政治部門と軍事部門はそれぞれ指揮系統が異なり、軍事部門であるカッサーム軍団は、総司令官のムハンマド・デイフ の指揮下にあり、政治部門のトップである政治局長のシンワル氏の統制下にはないので、シンワル氏が越境攻撃の「首謀者」ということはありえない。

 越境攻撃の時にハニヤ氏らカタールの政治局は、作戦の時期や規模、方法を事前に知らされていなかったというのが、世界の専門家の大方の見方である。カタールだけでなく、イランにも知らされなかったことで、作戦実施がイスラエルや米国の情報網に入ってこなかったと、私も考えている。ただし、ガザにいたシンワル氏は越境攻撃を行った軍事部門と密接に連絡をとっていたことは疑いないだろう。

軍事部門を率いたデイフ司令官

 カッサーム軍団総司令官のデイフ氏は、90年初めの軍団創設以来の主要メンバーで、2002年に前任者がイスラエル軍の暗殺の後、軍団総司令官についた。デイフ司令官はシンワル氏と同様にハマス創設時からいるシニアメンバーであり、シンワル氏は強力な個性と指導力を持つ指導者ではあるが、デイフ司令官も繰り返し、イスラエル軍の暗殺作戦から生き延びた「生きる伝説」のような総司令官である。

 デイフ司令官は2002年にカッサーム軍団を率いて、2007年以降のイスラエルのガザ封鎖と、繰り返されたイスラエル軍によるガザ攻撃に抗戦してきた。自爆攻撃・テロからロケット・ミサイルによる攻撃、ガザに総延長500キロに及ぶ軍事用トンネルの建設など、シンワル氏が2011年に刑務所から釈放され、2017年にガザの代表になる以前に、2023年の越境攻撃を見据えたハマスの軍事体制を作り上げたのはデイフ司令官である。シンワル氏を「越境攻撃の首謀者」と書くのは、ハマスの政治部門と軍事部門を意識的に区別しないイスラエルの見方で会って、客観的な見方とは言えない。

「帰還の大行進」を主導

 ただし、シンワルは政治指導者として、軍事指導者のデイフと対抗できる実績があった。それはシンワルがガザの政治指導者になった2017年の翌年の2018年3月から2020年3月まで2年間、ハマスの政治部門が主導した非武装の大衆動員デモ「帰還の大行進」の首謀者ということからくる。

 ハマスの政治部門と軍事部門の役割の違いは一般的には理解されていないが、軍事部門は閉ざされた秘密組織で、イスラエル軍と入植地への軍事作戦を担う。一方の政治部門はハマスメンバーだけでなく、民衆に働きかけ、非武装の反占領デモを主導する大衆動員活動を担う役割である。

シンワル氏の総括

 シンワル氏が率いたガザの政治部門が主導した「帰還の大行進」は2年間にわたって、毎週金曜日にイスラエル軍が陣取るガザの分離壁の手前で行われた大規模な大衆動員だった。2年間で、214人の死者を含む3万6千人超の死傷者を出した。シンワルは2021年5月に記者会見を開き冒頭発言で「帰還の大行進」後の状況について、次のように語った。

 

 私たちは 2 0 1 8年 3月から 2年間の帰還行進で、民衆による平和的な抵抗運動を行った。私たちはこの行動に対して世界に二つのことを期待した。第 1は、この平和的な運動を評価し、敵 (イスラエル軍 )が民衆に対して行う過剰で致死的な武力行使を抑制すること。

 第 2は、我が民衆の要求と権利を達成するために占領する敵に圧力をかけることだ。しかし残念ながら、占領軍の狙撃兵は、私たちの息子たちや娘たちの額や心臓、目、手や足を狙い、かなりの数が負傷し、死んだ。

 そのことを世界は傍観しているだけで、動こうとはしなかった。私たちはもう一度、強く主張する。私たちは占領に対して、民衆による平和的手段によって抵抗することを選ぶと。しかし、敵が罪を犯し、限度を超えたら、私たちは武装抵抗に頼らなければならなくなる。

 全世界は、米国やヨーロッパ諸国も含めて、パレスチナ情勢に対する包括的な解決策がなければならないという事実に向き合うべきだ。このままでは事態が暴発する可能性があることは明らかだ。世界が、国際法および国際決議を遵守するために (イスラエルの )占領に圧力をかける機会をつかむよう求める。……もし世界が (イスラエル軍の )占領に西岸から撤退するよう圧力をかけ、入植地を解体し、東エルサレムから撤退し、囚人を解放し、ガザの包囲を解き、私たちの土地にパレスチナ国家を設立することを認めるならば、地域の安定を達成することになる長期的な停戦を行うことができる。

 この記者会見はアルジャジーラによって中継されたが、当時、日本や欧米メディアにはほぼ無視された。シンワル氏は政治指導者として、民衆による平和的抵抗を受けて、イスラエルに占領終結を求め、国際社会に「国際法と国際決議に基づいたパレスチナ問題の包括的解決」を求めていた。日本や欧米のメディア強硬派のシンワル「イスラエルの破壊を主張している」と報じ、中東専門家、ジャーナリストの中にも、そのように考えている者がいるが、それはシンワルが公に語っている言葉にも、2年間、非武装の大衆動員デモを行ったという「事実」にも基づいたものでもなく、イスラエルの誤ったプロパガンダを真に受けているものと言わざるをえない。

大衆闘争から武装闘争へ

 ただし、ハマスは武装闘争を放棄しているわけではなく、大衆闘争・政治闘争と武装闘争を反占領闘争の両輪とするという考え方であり、武装闘争はカッサーム軍団が担う。2021年5月のシンワルウイの記者会見は「敵が罪を犯し、限度を超えたら、私たちは武装抵抗に頼らなければならなくなる」と述べており、軍事部門による武装闘争を警告したものでもあった。

 一方、2023年10月7日にハマスが越境攻撃を始めた日に、カッサーム軍団のサイトにディフ総司令官の音声による声明が流れ、次のようなくだりがあった。

 シオニスト体制 (イスラエル )は我々の土地を占領し、我々の民衆を排除し、我々の町や村を破壊し、我々の民衆に対する数百の虐殺を犯し、子供たちや女たちや年寄りを殺し、国際法や国際人道法を侵している… …我々は占領者の指導者たちに犯罪行為の停止を訴えたが、拒否され、国際社会の指導者たちに占領の罪を終わらせるように繰り返し求めてきたが、無視されてきた … …我々は神の力を頼み、これらすべてを終わりにすることを決意し、アルアクサー洪水作戦の始まりを宣言する。作戦は敵の拠点、空港、軍事施設を標的としており、最初の 20分で 5 0 0 0発以上のミサイルとロケットを発射した。

政治から軍事への転換

 この声明で「我々は占領者の指導者たちに犯罪行為の停止を訴えたが、拒否され、国際社会の指導者たちに占領の罪を終わらせるように繰り返し求めてきたが、無視されてきた 」とあるのは、2021年5月のシンワル氏の記者会見の冒頭発言に呼応していることは明らかである。越境攻撃の前に、政治部門が主導する大衆動員の段階を終わり、軍事部門が主導する越境攻撃へと移り変わり、主導権は政治門のシンワル氏から軍事部門を率いるデイフ司令官へと移った。

 その際に、シンワル氏から武装闘争の目的設定について、政治部門としての注文を出たのだろう。越境攻撃の中で、政治部門の関与が必要なのは、230人以上の人質を取った場合の解放交渉である。もし、カッサーム軍団の目的が、イスラエルに軍事的な打撃を与えることであったのなら、これほど多くの人質をとる必要はなかった。

越境攻撃の3つの目的

 越境攻撃にはいくつかの目的があっただろう。まずは①2007年から16年続いたイスラエルによるガザ封鎖を物理的に打ち破るという意味、②イスラエルに軍事的な打撃を与えることでイスラエルに占領の代償を思い知らせるという意味。さらに、③多くの人質をとることで、イスラエルの報復攻撃を抑え、人質解放交渉にイスラエルを呼び込むーーなどだ。軍事部門は越境攻撃の後、当然、予想されるイスラエル軍による激しい報復攻撃に抗戦しなければならない。抗戦している間に、シンワルが率いる政治部門が停戦や政治犯釈放と引き換えに人質解放を行う交渉を行うことになる。

多数の人質拉致の意図は

 シンワル氏は「帰還の大行進」で実現できなかったイスラエルとの交渉を、カッサーム軍団の越境攻撃による人質拉致で実現しようとしたのだと私は見ている。過去のイスラエルとパレスチナの紛争を振り返れば、2006年にハマスに拉致された一人のイスラエル兵の解放と引き換えに、2011年に1026人のパレスチナ政治犯が解放され、その一人がシンワル氏だった。シンワル氏が越境攻撃に人質の拉致を入れさせたのだろう。しかし、人質の拘束・拉致は、そのために人員も車両も用意しなければならず、それだけ作戦の負荷となるが、軍事部門を率いた経験があり、政治指導者としては「帰還の大行進」を行って、政治部門の役割を果たしたシンワル氏だからこそ、デイフ司令官に認めさせることができたのだろう。

 さらにシンワル氏には特殊な経歴がある。1987年12月にガザで始まったインティファーダ(民衆蜂起)を機に、当時のパレスチナ・ムスリム同胞団の政治局の幹部が、イスラム運動としてインティファーダに参加することを決め、「イスラム抵抗運動(ハマス)」の発足を決めた。この時の同胞団の政治局長がヤシーンである。インティファーダとは占領イスラエル軍に対する民衆のデモであり、同胞団はモスクを中心とした慈善活動でつながるイスラム教徒を「反占領デモ」に動員することを決めて、そのためにハマスを創設した。

防諜組織の指導者

 一方で同胞団はハマスが発足する1カ月前の1987年11月に武装闘争の開始を決定し、二つの武装組織を発足させた。一つは「ムジャーヒドゥーン(聖戦士たち)」と名付けられたイスラエル軍とユダヤ人入植者と戦う軍事組織であり、もう一つは「マジド(栄光)」と名付けられたパレスチナ社会でイスラエルのスパイを摘発する防諜のための軍事組織である。シンワル氏は26歳で、マジドを率いる2人のリーダーの一人となった

 シンワール氏が1989年にイスラエル軍に拘束され、終身刑の判決を受けたのは、パレスチナ人のスパイ2人を殺害した容疑だった。その意味では、シンワール氏は軍事部門から出発して、22年の服役を経て、政治部門に移ったことになり、ハマスでは異例といったほうがいいだろう。出所した後、シンワル氏は2012年からガザのハマス政治指導部の中でカッサーム軍団担当となった。政治部門とカッサーム軍団の連絡調整役であるが、シンワル氏が担当の時に、カッサーム軍団の司令官の一人が、横領や同性愛、イスラエルへの情報提供などの嫌疑を受けて処刑された事件があり、かつて防諜活動を率いたシンワル氏による組織の粛清とみなされている。

防諜体制の構築の貢献

 ハマスにとっての脅威は、イスラエルの協力者=スパイが、ハマス幹部の情報や組織の情報をイスラエルに流すことであり、イスラエルによるハマス幹部の暗殺の多くは、協力者による情報提供で居場所や車の移動が察知されて、攻撃されている。特にカッサーム軍団の幹部は日常的にイスラエル軍に狙われているため、居場所を明かさず、寝る場所を転々とする生活をしている。

 2017年にシンワル氏はハニヤ氏に代わって、ガザの政治局長となり、ハニヤ氏はカタールに拠点を置く全体の政治局長に選出され、ガザを出た。ハニヤ氏は社会事業や教育活動などに携わってきた穏健派であり、ハニヤ氏がガザにいた間は、シンワル氏とハニヤ氏との間で確執が報じられた。ハニヤ氏は昇格という形となったが、実際にはシンワル氏によってガザの政治局長の地位を奪われたことになる。しかし、ハマスの越境攻撃がイスラエル軍に事前に知られなかったのは、シンワル氏がガザの政治指導者として、ハマス内部のイスラエルの協力者を効果的に排除し、情報を管理する防諜体制を構築したことによると私は見ている。

根っからの文民指導者

 それはハマスの軍事部門にイスラエルのスパイが侵入するのを阻止し、軍事部門を守ることになる。その前の政治局長のメシャアル氏やハニヤ氏は、軍事部門にかかわったことのない根っからの文民指導者である。普通の人はもちろん、ジャーナリストでも、「文と軍」の区別が、軍事経験があるかないかで考え方や動き方に明確な違いがあることを理解していないものが多い。メシャアル氏は政治局長を1996年から2017年まで21年間勤め、ハマスでは最も影響力とカリスマのある政治指導者ではあるが、ガザ出身ではなく、西岸出身であることと、軍事経験がないこともあって、ガザの軍事部門の信頼を得ていないとされる。

 ハニヤ氏がイランで暗殺された後、シンワル氏がハマス全体の政治局長になることについては、「帰還の大行進」という政治局主導のプロジェクトを行った実績とともに、イスラエルの攻撃が続く状況下ではカッサーム軍団と密接に連携するシンワル以外の選択肢はなかったのだろう。昨年10月7日以降のイスラエルとの停戦交渉でも、ハニヤ氏がカタールにあるハマス政治局を率いて、シンワル氏がガザの政治指導者でカッサーム軍団と連携しているという、ある種の二重構造になっていて、ガザとカタールで停戦に対する考え方で立場の違いがあることが繰り返し報道されてきた。強硬派のガザに対して、カタールは柔軟だとされてきた。

シンワル死去で柔軟化か

 シンワル氏が停戦交渉で強硬派という意味は、停戦の原則にこだわるということである。特に5月末にバイデン大統領がイスラエル軍の撤退と戦争終結を実現する停戦案を「イスラエル案」として発表し、ハマスは前向きの反応を示したが、ネタニヤフ首相が「ハマス壊滅に向けの戦闘継続」を唱えて、バイデン氏の発表を覆した。その後、ネタニヤフ首相は停戦の条件としてガザとエジプトの境界地帯と、ガザ中部でガザを横断する道路へのイスラエル軍の駐留継続を求めて、全面撤退を否定した。これに対して、ハマスが拒否したのはシンワル氏が全面撤退、戦争終結という原則にこだわったためである。

 シンワルの死去による今後の停戦交渉への影響を考えれば、ハマスは柔軟化すると見ている。それはハマスの軍事部門が「弱体化」したためではない。ハマスとイスラエルの戦闘では、イスラエル軍の発表によると、ガザでの地上戦では10月24日時点でイスラエル兵の死者は357人で、2カ月前の8月24日時点の死者は338人であるから、2カ月で19人が死んだことになる。

ハマスのゲリラ戦は続く

 イスラエル大手紙イェディオト・アハロノトが8月初めの報道によると、ガザでの戦闘で兵士1万人以上が死傷したとし、毎月約 1000 人の兵士が肉体的・精神的な負傷兵入りしているとして、兵士不足が深刻になっているという。そのような報道があった後も、ハマスの抗戦でイスラエル兵は軍の発表だけで月に10人程度死んでいる。

 ハマスの軍事部門のカッサーム軍団はトンネルを使った少人数のゲリラ戦であり、一つのグループは5人から7人程度で、イスラエル軍が大軍を投入しても、陣地を包囲して大人数を制圧する作戦はできない。カッサーム軍団は抗戦の期間を延ばして、イスラエル軍に「痛みを与え続ける」という戦法で、その戦法は越境攻撃から1年を経過しても続いている。

柔軟化を促す民意

 ハマスが停戦交渉で柔軟化すると私が考えるのは、ガザの民意の変化による。9月中旬に発表されたパレスチナ政策調査研究センター(PCPSR)の世論調査でイスラム組織ハマスによる10月7日の越境攻撃について「正しかった」とする回答が、ガザで初めて50%を下回り、39%となった。逆に「正しくなかった」は57%と過半数を占めた。今年3月時点では「正しかった」はガザで71%だったことを考えると半減であり、6月の調査の57%と比べても18ポイントの減少となった。これか越境攻撃によって始まった武装抵抗に対するガザ住民の否定的な見方が飛躍的に高まったことを示し、ハマスは武装闘争を終結し、政治闘争への転換を迫られることになるということである。

 この結果は、ガザの民衆は9月の時点で越境攻撃うぃ否定的にとらえる意見が多かったことで、半年前の3月時点では「正しかった」が71%を超えていたという、その時の民意が否定されたわけではない。状況の変化によって「世論」は変動するものである。イスラエルの激しい攻撃の中で、越境攻撃を「正しかった」とするガザの民意が攻撃から9か月後の6月下旬でも57%と半数を超えていたことは、軍事部門は大きな成果と考えているだろう。

越境攻撃支持の背景

 9月に「越境攻撃が正しい」とする民意が急減したことは、ハマスが新たな対応を迫られているというだけのことである。

 PCPSRは「ハマスの越境攻撃を『正しい』とする回答者の3分の2は、国際社会で無視されてきたパレスチナ問題への注目を集めたとしており、ハマスの支持や(イスラエル人の)殺害の支持とはならない」と指摘している。ハマスの越境攻撃への否定的な意見が増えたのは、ガザでの死者数の増加や破壊の進行という状況悪化とともに、ネタニヤフ首相が「イスラエル軍の全面撤退」「戦争の終結」という停戦の原則を拒否して、米国や欧州主要国のイスラエル支持が変わらないことへの失望という別の要素があるも考えなければならない。

 ハマスは世論調査に現れた民意の変化に対応せざるを得ないと書けば、ハマスのようなイスラム組織が世論調査など気にするのか、と思うかもしれないが、そのように考えること自体がハマスに対する無理解である。ハマスはもともとエジプトで生まれたムスリム同胞団系のイスラム組織で、この運動の特徴は「民衆とのつながりでイスラム社会を建設する」ことで、イスラムの解釈や実施では「公共の利益」を重視する。

「公共の利益」を重視

 それはハマスを含むムスリム同胞団系組織が「現実的」ということを示すが、イスラム政治組織としては同胞団系組織の特徴となる。サラフィー主義と呼ばれるアルカイダやジーハード(聖戦)系の組織は、イスラムの解釈や実践では、コーランの記述を文字通り解釈し実践する。サラフィー主義から見れば、コーランの記述を曲げてでも、「公共の利益」を優先する同胞団系組織の現実主義は、イスラムから逸脱したものとして「敵視」の対象となる。 

 ハマスは2006年のパレスチナ自治評議会選挙で自治政府を主導していたファタハを破って過半数の議席を獲得した。さらに2011年の「アラブの春」でチュニジアやエジプトで独裁政権が倒れ、その後の民主的な選挙で、エジプトのムスリム同胞団の政党や、チュニジアの同胞団系政党「アンナハダ」が第1党になった。いずれも、「公共の利益」を重視し、イスラム的な慈善活動や貧困対策、教育活動によって民衆に食い込み、民衆とつながっているためである。

民意の変化で方針を変更

 ハマスが民意の変化によって、闘争方針を変えた例は過去にもある。90年代から第2次インティファーダの間、ハマスは自ら「殉教作戦」と呼ぶ、自爆攻撃・自爆テロを戦術として使ってきた。同様の戦術はハマスだけでなく、イスラム聖戦はもちろんだが、ファタハやPFLPなど本来、世俗派組織の軍事部門も自爆攻撃・テロを行った。ハマスは2005年1月を最後に、組織としては「殉教作戦」を停止した。ほかの組織は2006年、07年まで続けた。

 2008年に第2次インティファーダでイスラエル軍の侵攻で大きな被害を受けたパレスチナ自治区ジェニンを取材した時、息子を「殉教作戦」で失った2つの家族を訪ねた。かつては「殉教作戦」で死んだ息子について、親たちは「神に選ばれ、名誉なことだ」と息子たちの死を賛美していたが、この時は、二人の親は「息子は何のために死んだのか」「なぜ、息子を殉教作戦に勧誘したのか」と殉教作戦を批判した。殉教作戦に対する人々の意識が変化したことを知った。

「殉教作戦」停止の背景

 数字の上では、PCPSR世論調査で、殉教作戦に対して、2005年3月の調査では29%になっていた。2004年9月の調査では殉教作戦の指示は77%から大きく下落した。私が2008年の取材で発見した人々の殉教作戦に対する意識の変化は、このころに起きたことになる。ハマスは民衆の意識の変化を受け取って、いち早く殉教作戦を停止したと考えることができる。

 このような民意の変化を受けて、ハマスは殉教攻撃を停止して、つまり、カッサーム軍団が主導した武装闘争から、当時、ガザの政治部門の指導者だったハニヤが主導する「大衆動員」としての選挙参加に戦略を切り替えた。民衆が、ハマスが得意とした殉教攻撃を支持しなくなったことは、民衆のハマス離れを意味するのではなく、軍事部門から政治部門への主導権の移動を意味し、ハンスは武装闘争から選挙参加という大衆動員に移り、選挙でハマスは予想を覆して、民衆の支持を得て勝利した。

ハマス政権を欧米は拒否

 ハニヤ氏がのちにガザの政治指導者からハマス全体の政治局長になるのは、占領パレスチナの政治指導者とて選挙に民衆を動員した歴史的な実績があったためである。しかし、ハマスが選挙で勝利し、単独で自治政府の政権発足させたことに対して、米国、欧州、日本はハマス政権を認めず、援助を停止した。その後、ハマスのカッサーム軍団が2007年にガザからファタハを排除した。イスラエルはガザを封鎖した。ハマスの政治部門がガザでの統治を維持したが、2008年末以来、繰り返されたイスラエルによるガザ攻撃で、前面に立ったのは、ミサイル攻撃を行う軍事部門であるカッサーム軍団だった。

 先に書いたように、ハマスがイスラエル占領下で武装闘争を展開し、次々と軍事指導者、政治指導者を殺害されながらも組織として存続してきたのは、ハマスを支えるイスラム的社会運動で民衆と深くつながり、政治部門が民衆を動員して政治を主導し、軍事部門が「解放」という民衆の夢を担ってイスラエルに対する武装闘争をするという構造になっていたためである。

反占領闘争への激しい報復

 イスラエルに対する武装闘争は、イスラエルを打倒することは目的ではなく、イスラエルに軍事的な打撃を与えることで、占領の代価を知らせ、占領終結に向かわせることを狙ったものである。ネタニヤフ首相らイスラエルの右派が「ハマスはイスラエルの壊滅を狙っている」と言っているのは、ハマスと戦う以外に、占領地からの撤退という方法があることを否定するためでしかない。

 反占領闘争では、ハマスであれ、ファタハであれ、武装闘争でイスラエル軍やイスラエル市民を死傷させれば、数十倍の軍事的な報復をうけることは最初から分かっていることである。パレスチナ住民は最初は武装闘争を支持するが、イスラエルの軍事的な報復で民衆の代償が大きくなりすぎれば、武装闘争を収束させて、民衆動員による政治闘争に転換することになる。

殉教作戦への民意離れ

 第2次インティファーダで2004年9月から2005年3月の間に、PCPSR世論調査で殉教攻撃への支持が77%から29%まで下落して、ハマスが殉教作戦を停止しなければならなかった。同じような民意の変化が「越境攻撃支持」が今年3月の71%から9月の39%への下落で起きたと考えるべきだろう。その結果を見て、シンワルは殺害される前に、「帰還の大行進」から越境攻撃へとつなげた自身の政治指導者としての役割は終わったことを理解しただろう。

 政治指導者としてのシンワル氏に読み間違いがあったとすれば、数多くの人質をとったにもかかわらず、ネタニヤフ首相が停戦交渉に乗ってこなかったことだ。これはシンワル氏だけが判断を間違ったのではなく、イスラエルの国民の多くにとっても受け入れられない判断だった。人質問題への対応をめぐって、イスラエル世論の多数が政権に反対した。今回のネタニヤ首相の判断は、イスラエルに大きな分裂と対立を生み出した。

ハマスの闘争も転換か

 結果的にハマスの政治部門が人質解放を条件とした停戦交渉でネタニヤフ政権と7月に越境攻撃を主導したデイフ司令官が殺害され、今回、シンワル氏が殺害されたことで、ハマスの闘争は、戦争終結と新たな民衆動員に向けて、転換すると私は見ている。

 戦闘を終結させるためには、シンワル氏が主張していた「全面撤退、戦争終結」という原則を降ろすしかないだろう。現在、イスラエルはガザ北部で徹底的な軍事作戦を行い、ジャバリア難民キャンプ以北の廃墟化と住民排除で、幅5キロ程度の緩衝地帯を作ろうとしているように見える。それに加えて、ネタニヤフ政権は▽ガザとエジプト国境の回廊地帯への軍の駐留、▽ガザの南北を横断する道路への軍の駐留ーーという3つの条件を、戦闘停止の条件として求めるだろう。

停戦交渉で柔軟路線か

 シンワルウイはどれも認めないという強硬方針だったが、今後、戦闘停止を最優先として、どれかを認めるという柔軟路線に代わるだろう。もちろん、交渉は簡単ではないだろうが、ハマスの譲歩によって将来的にガザの民衆の困難が増えるとしても、ガザの民衆は戦闘停止のための譲歩を受け入れるだろう。ハマスにとっては、これから数カ月は、越境攻撃以来、カッサーム軍団が主導した武装闘争から、政治部門が主導し、ガザの民衆に根を張るイスラム社会組織が動く「戦後」が始まるという転換の時となるだろう。

 軍事的にはイスラエルに抑え込まれてしまった第2次インティファーダの後、ハマスの政治部門が選挙参加という「大衆動員」で人々の支持を集めて、勢力を拡大したことと同じことが、今後、起こるとしか思えない。この悲惨な戦争の後で、ハマスの政治部門が主導する「大衆動員」とは何か? 停戦が現実味を帯びてくればガザの「戦後」を見据えて踏み込みたいが、1年後には現実として明らかになっているだろう。

中東ジャーナリスト

元朝日新聞記者。カイロ、エルサレム、バグダッドなどに駐在し、パレスチナ紛争、イラク戦争、「アラブの春」などを現地取材。中東報道で2002年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。2015年からフリーランス。フリーになってベイルートのパレスチナ難民キャンプに通って取材したパレスチナ人のヒューマンストーリーを「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」(岩波書店)として刊行。他に「中東の現場を歩く」(合同出版)、「『イスラム国』はテロの元凶ではない」(集英社新書)、「戦争・革命・テロの連鎖 中東危機を読む」(彩流社)など。◇連絡先:kawakami.yasunori2016@gmail.com

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