新聞記者の次は、ヤクザで社会を鋭く見つめたのか? 藤井道人監督「消えゆくもの、そして不寛容への思い」
2019年度の日本アカデミー賞で作品賞に輝いた『新聞記者』は、内閣情報調査室という、ある意味でアンタッチャブルな題材に切り込み、現政権への痛烈な批判ともとれるなど、さまざまな論議を起こした。日本映画で、しかも松坂桃李というメジャーな俳優を使って、政治的メッセージも受け取れる作品を撮ったことで、一躍、注目を浴びたのが藤井道人監督である。
しかし『新聞記者』の公開時、32歳だった藤井監督は「こうした政治的テーマを30代でもう一本発表できるとは思わない」と、社会派監督としての強い意思があるわけではないことを語っていた。実際に、『新聞記者』の後に、彼は清原果邪を主演にした青春映画『宇宙でいちばんあかるい屋根』を撮り、同作は2020年に公開されている。
その次となる新作『ヤクザと家族 The Family』は、『新聞記者』と同じくスターサンズの河村光庸プロデューサーと組んだ作品である。単なるヤクザ映画ではなさそうな予感も漂う。
『新聞記者』のインパクトによって、社会派作品を期待されることについて聞くと、藤井監督は落ち着いた表情で語り始めた。
「たしかに『新聞記者』の後、そういうイメージで見られることも増えました。でも映画で人間を描けば、イコール、社会を描くことになりますよね。だから、すべてのヒューマンドラマは、社会派になりうるのです。自分としてはあまりレッテルを貼られず、人間を、そして現在を描いていきたい。そこに付随してくるものが社会だと、僕は信じています」
ヤクザが置かれる状況に映画人としてシンパシーも
日本アカデミー賞作品賞などの「成功」についても、あくまでも謙虚に受け止めているようだ。
「状況は、つねに変わっていくものだと思うんです。『新聞記者』は高い評価を受けましたが、決して製作環境に満足していたわけではありません。だから次は、もっと自分のチームにいい環境で映画を撮らせてあげたいという気持ちが強くなった。そんな風に話すと『エラくなったな』と受け取る人もいるかもしれませんが、そうしたプレッシャーも、しっかり受け止める覚悟はありますね」
とはいえ、『新聞記者』の成功が『ヤクザと家族』の企画を導いたのではないか? しかし製作の時期を考えると、そういうわけでもなさそうだ。
「じつは『新聞記者』が“ほぼ完成”という時期に河村さんから『じゃあ次は何をやろうか』と声をかけられていました。原作モノなどあれこれ選択肢を考えつつ、僕の希望も聞いてもらって、おたがいの意見が一致したテーマが、ヤクザだったんです。『新聞記者』との大きな違いは、もともと興味があった題材という点ですね」
たしかに『新聞記者』では、「僕は政治に詳しい人間ではなく、映画を撮る自信もなかったので、最初はオファーをお断りした」と、藤井監督は語っていた。
「子供の頃から興味があったんです。僕自身、育ったのが新宿や中野で、当たり前にヤクザの人たちが存在している環境でした。語弊を恐れずに言えば、彼らがカッコよく見える時期もあったと思います。そういう人たちの影が年々消えていき、暴対法(1992年施行の暴力団対策法)によってさらに弱体化する。そんな“状況”にシンパシーをおぼえたのは事実ですね。今まで隆盛を誇っていたものが消えていくのは、ヤクザに限らず、僕ら映画人にも当てはまると感じたのです。映画界は利便性を求めてフィルムからデジタルに移行しましたが、今でもデジタルにはフィルムを超えられないものもある。システム重視で縮小化される世界に、どこか共感してしまうんです」
過去になっていくものへの哀愁ーー。
「街では古い建物が壊されてキレイになっていくけれど、そこに住んでいた人はどうなったのか。正しいことって、何なのだろう」と、『ヤクザと家族』の脚本を書きながら、藤井監督の心に潜在的に眠る何かが噴き出していく。
かつて自主映画として撮った『けむりの街の、より善き未来は』という作品は、映画製作を学ぶ青年が、ヤクザに関するドキュメンタリーを撮ろうとする物語だった。その「煙」というテーマを今回、もう一度やりたかったそうで、たしかに燃え上がった炎が煙となって空へ上る運命に、消えゆくものへの哀愁が重なる。
舘ひろしの流した涙に感動
『ヤクザと家族』は、綾野剛が演じる主人公の賢治が、食堂で襲撃を受けた組長を助けたことをきっかけにヤクザの世界に入り、家族同然となった組との関係を、時代を追って描いていく。実力派キャストが集まった撮影現場で、藤井監督を驚かせたのは、やはり、あの人だった。
「イメージどおりに演技をしてくれたり、予想を超えてきてくれたり、という現場でしたが、(組長役の)舘ひろしさんが脚本には書かれていないのに涙を流す芝居には感動しました。しかも相手には見せないように涙を流したんです。自分が脚本を担当したことで、現場でセリフを直していけるので、『舘さん、これ言いづらいだろうな』と感じたら、その場で対応できる。そうやってどんどんアジャストしていく感覚がありましたね」
1999年に始まる物語は、2005年、2019年と3つの時代で描かれ、賢治のヤクザとしての運命も切実になっていく。終盤の2019年の直後、世界は新型コロナウイルスによって一変した。
「最後を2019年の設定にしておいて本当によかったです。2020年を舞台にしたら、まったく違う風景が求められましたよね? ヤクザの世界もコロナで一変したと思うのですが、さすがに僕はそこまで描く自信はなかったです」
では、今回のコロナ禍は、映像作品を手がける藤井監督にどのような影響を与えたのだろうか。撮りたい題材への変化も起こったりしているのだろうか。
「いま新作のドラマの撮影に入っているんですが、どこまでキャストにマスクを着けてもらうのか、悩んだりもしています。そもそもマスク姿での芝居は本質的なのか? あれこれ考えてしまいますね。新型コロナによって、社会全体がポジティブになろうとする流れもありますが、僕はその流れに居心地の悪さを感じることもあります。『今できることをしよう』という気持ちになりつつ、『それはできない』という頑固な部分もあって、たとえばリモートでマスクを着けた状態で何か作品を撮るという機動力も大事ですが、今の僕には難しいですね。この感覚は2011年の東日本大震災と似ていて、『募金した?』という会話が日常になり、していないと後ろめたさを感じる風潮がよみがえります。震災で感じた思いを、ようやく5、6年経って『青の帰り道』や『デイアンドナイト』の脚本に落とし込めたので、今回も現状にまつわることを、すぐには書けないですね」
しかし『ヤクザと家族』での、ヤクザの家族が不当な差別を受けるエピソードなどは、現在のコロナ禍で発生する差別や偏見と重ねて観てしまう人も多いはずだ。このように現実との偶然のリンクも、映画が起こすマジックでもある。
「こうしたコロナ禍の中では、僕らが映画を作って公開していること自体を『非常識』だと感じる人もいるでしょう。そういう人にとって、映画製作は『悪』ですが、映画でメシを食っている人もいる。コロナによって、相手の話を聞かず、一方通行になっていく『不寛容』は強く感じます」
ヤクザの場合は実際に犯罪に絡んでいるケースもあるので、一概にコロナ禍の社会の差別と結びつけてはいけない。しかし社会の不寛容を考えさせるという意味で、藤井監督は「社会からハミ出た人が、ヤクザという家族の秩序に入る。社会のルールでその秩序をなくすことで、行く当てのなくなった人はどう救ってもらえるのか。その疑問は残っています」と、ヤクザをテーマにした作り手ならではの心境を吐露する。
映画は、100年後の人たちが観る可能性もある
このインタビューが行われたのは、1都3県に緊急事態宣言が出された直後で、『ヤクザと家族 The Family』の公開日(1/29)がちょうど宣言期間中に当たってしまった話になると「正直、悔しいです」と悲しげな表情になる藤井監督。
「(社会にとって)正しさを前面に出さなければいけない今の状況で、なかなか自分の言葉が出てこない。そこはもどかしいですね」と自身のジレンマとも向き合っている。
最後に、今回の『ヤクザと家族 The Family』にしても、『新聞記者』にしても、センセーショナルな題材を扱いながら、どこか一歩距離を置いたクールな視線が感じられるのが藤井道人作品である気もする、と話を向けると……。
「映画って、観客との対話だと思うんです。たとえば作品を100年後の人たちが観る可能性もあるわけですから、『人間はこうあるべき』という思想は排除しようと思っているかもしれません。人を見て、善悪で定義しないところは、確かにあります」と自身を分析しつつ、「でも実際はエモーショナルに映画を作ってますよ」と、自作に対する内なる情熱を付け加えた藤井道人監督。
ヤクザと社会の関係、そのリアリティを神のような視点で冷静に描きながら、登場人物たちの激しく渦巻く感情を作品に熱く宿らせる。その手腕を納得させる言葉だった。
『ヤクザと家族 The Family』
1月29日(金) 全国公開
配給:スターサンズ/KADOKAWA
(C) 2021『ヤクザと家族 The Family』製作委員会