徳川家康が長期政権を構築するために織田信長と豊臣秀吉から何を学んで活かしたのか?
織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食らう徳川
この歌は江戸時代に作られ、信長・秀吉・家康をうまく表現していると思います。
信長は天下統一目前で本能寺で討たれます。そして、信長の遺志を受け継いだ秀吉が天下統一を果たしますが、自身の死後の事業継承がうまくいかずに家康が天下分け目の戦いを制し、260年以上続く徳川政権の礎を築くことに成功しました。そこで、なぜ家康は信長・秀吉も成し得なかった長期政権を作り上げることが出来たのかを考察してみます。
織田信長はワンマン経営!?
新しいことをどんどん取り入れた時代の革命児でもある信長。「天下布武」のスローガンを掲げて突き進み天下統一目前までこぎつけました。前例のない常識を破った政策で力をつけてきた信長ですが、人への根回しが足りないことで何度も危機が訪れています。
その最たる例が金ヶ崎の戦いです。浅井長政との同盟の証として信長の妹・お市が嫁ぎ、同盟が成立しました。その際に『朝倉を攻めない』という同盟の条件も付けていたそうです。しかし、それを踏みにじって越前侵攻を信長は決め、金ヶ崎の戦いが勃発しました。結果は浅井長政の裏切りによって織田信長が惨敗。この敗戦は義弟である長政に事前の根回しをしっかりとしていれば違う結果があったかもしれません。
ほかにも信長はよく身内から裏切られており、弟・信行や足利義昭、本願寺、松永久秀、三好義継、波多野秀治、別所長治、荒木村重など、一度信長に臣従した者たちが次々と反旗を翻しています。その極めつけが明智光秀で、猜疑心が強い割には根回しを行わず、慎重さに欠けるのも信長の欠点ともいえます。
ルイス=フロイスの【日本史】では『信長が家臣の忠告にはほぼ、あるいは全く従わず』と評価していることから、家臣たちの意見を取り入れずワンマンであったと推測されます。秀吉のようにハマればよいですが、そうでない人たちにとっては苦痛であり、それが後の反発や本能寺の変へと向かったのかもしれません。
秀吉の失敗・政権の後継者不足
持ち前の人たらしで人の懐に入り込み、敵を味方に引き込む調略が得意な秀吉の周りには政治や軍事面で秀でた人材が集まっていました。小牧長久手の戦いでも家康が頼りにした大名たちが秀吉に取り込まれています。
この戦い後、秀吉に臣従しようと決めた家康は豊臣政権の中枢を担うことになり、そこで秀吉の周到な根回しやずるがしこさを学びます。しかし、家康は豊臣政権が秀吉に依存していることに気が付き「秀吉の死後の豊臣政権は後継者次第で崩壊するのでは?」と考えていたような節がありました。
実際に秀次切腹事件による後継者不足で豊臣政権の脆弱性が露見します。加えて、朝鮮出兵を起因とした家臣たちの内部分裂も重なり、家康に付け入るスキを見せたことが政権崩壊の要因の一つだと考えられます。
徳川家康には信頼できる重臣が…
徳川家臣団を調べると、結束力の強さがよく指摘されています。その家臣たちの多くが家康の人質時代を共に生活した徳川二十将と呼ばれる面々でした。こうした苦楽を共にした家臣たちだからこそ家康も気が使えるし、信頼も置くことができたのかもしれません。
独立後は信長、本能寺の変後は秀吉に付き従って人材のマネジメントを見てきた家康。さらに、過去の武家政権についても研究して古くからの伝統を踏襲しつつダメな部分も考え抜きました。そこに近くで長年苦しめられてきた武田信玄までも手本にして家康流の組織を作り上げます。
こうして敵味方関係なく過去の成功例・失敗例を学んだことで家康は長期政権を築き上げたのでした。