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実はお人よしなのか?織田信長は明智光秀以外にも結構裏切られていた!?

歴ブロ歴史の探求者

戦国時代は家臣や身内の裏切りによって命を落とす君主たちがいました。

本能寺の変で明智光秀に裏切られた織田信長もその一人。信長は光秀以外にも結構裏切りにあっています。

そこで今回は信長を裏切った人物たちを紹介します。

織田信行や林秀貞と柴田勝家の裏切り

最初の裏切りは、信長が家督を継いで5年後の事。当時の筆頭家老・林秀貞は信長の家督相続に不満を持っていました。その秀貞は信長の弟・信行こそが当主に相応しいと考えるように…

そして、1556年に秀貞は、柴田勝家らと組み信長討伐を掲げました。

しかし、秀貞の軍勢は信長によって鎮圧。その後の処分で信長は、謀反の首謀者と加わった者を許したのですが、信行はまた不穏な動きを始めます。しかたなく、信長は清州に信行を呼び出して殺害し、織田家の家督争いを終結させました。

また、謀反に加担した林秀貞と柴田勝家は許され、勝家は実直に武功をあげて筆頭家老の地位まで登り詰めます。一方で林秀貞は家老待遇でしばらく信長に仕えていましたが、1580年に佐久間信盛と共に追放処分を受けました。

義弟・浅井長政の裏切り

織田信長は美濃攻略の過程で浅井長政と同盟。その証として妹・お市と政略結婚させました。こうして、上洛経路の確保と美濃攻略の足がかりを得ることになります。

そして、足利義昭を奉じ上洛を果たした信長は朝倉氏に上洛を促しますが、朝倉が無視したことで信長は兵をあげました。

ところが浅井氏と朝倉氏は親交が深く、長政はギリギリまでどちらにつくか悩みましたが朝倉氏への義理を果たすことにします。そして、浅井氏は朝倉を攻めていた織田軍の背後を突き信長を追い詰めましたが、信長は命からがら退却しました。

松永久秀は信長を二回裏切る

松永久秀は信長の上洛に協力し、その後は帰順の姿勢を見せていました。しかし、将軍・足利義昭と信長が不仲となり義昭が「信長包囲網」を出すと武田信玄が参加を表明し出陣。久秀もこれに呼応し信長に刃を向けます。

ところが、進軍中に信玄が病死すると信長包囲網は瓦解。首謀者の義昭は、最終的には信長によって京都から追放され、これが事実上の室町幕府滅亡となっています。

一方で久秀は籠城をして信長に抵抗していましたが降伏。なんとか信長に許されて再び帰順しました。

ところが久秀は再び反旗を翻します。

1577年に石山攻めに従軍した久秀が突如戦線を離脱し居城に立て籠もりました。

信長は久秀に「俺なんか悪い事した?」と問いただしますが良い返答はもらえず、埒が明かないため織田信忠に討伐を命じました。

圧倒的な兵力差で久秀の居城を包囲するのですが、さらに信長は「平蜘蛛の茶器を渡せば今回の事は水にながそう」と久秀を説得します。

しかし、説得の甲斐もなく最後に久秀は信長が欲しがった平蜘蛛と共に自害しました。

荒木村重の裏切り

三木合戦で織田に加わったのが荒木村重ですが、突然信長に謀反を起こします。

理由は足利義昭や本願寺と通じていた、信長に恨みがあったなどさまざまな説がありますが定かではありません。

居城の有岡城に立て籠もった村重ですが、明智光秀などの説得に応じ安土へ向かいます。しかし、その道中で家臣から「信長は根に持つ人間だからよく考えたほうが良いよ」と言われ再び籠城することに。

そこでかねてから親交があった黒田官兵衛を説得役に命じ有岡城に向かわせますが、村重は官兵衛を拘束し監禁します。

当初は村重の謀反を信じられなかった信長でしたが、我慢の限界を迎え、有岡城を包囲。10ヵ月の籠城の末、荒木側の家臣が寝返り落城し、村重は毛利輝元のもとへ単身で脱出しました。

その後、怒りの収まらない信長は、捕獲した村重の一族と家臣らの家族36人を斬首しています。謀反の首謀者・村重は、茶人として52歳まで人生を全うしました。

本能寺の変で明智光秀が信長を討つ!

日本史上、最大のミステリー本能寺の変。光秀の動機や信長の遺体が発見できなかったなどいまだに解明されていない事が多く、たくさんの研究者がその謎に挑んでいます。

本能寺の変では、まさに一番信頼し好待遇をしていた光秀に裏切られてしまいました。

まさに信長の油断と言ったところでしょうか?

信長を討つことに成功した光秀でしたが、数日後の秀吉との直接対決に敗れます。

この事件で信長本人と跡取り信忠が命を落とし、織田氏の家督争いが勃発し羽柴秀吉の台頭を許します。もし、織田信忠が健在だったら秀吉の付け入るスキがなく、織田氏も違う方向にむかっていたと思います。

織田信長は一度裏切った人は絶対に許さないイメージがありますが、織田信行や松永久秀は一度許しています。弟を許すのは心情的に理解できますが、久秀に関しては一度ではなく二度目も説得しています。

「平蜘蛛」が欲しかったのか、ただのお人よしなのかは信長本人しかわかりません。

こうしてみると信長は身内や重臣、味方の大名たちにも裏切られ、命を脅かされてきました。これには信長が味方を信じ切るお人よしな部分があったとも言われています。

最近では「信長の冷酷イメージは後世の作り話で実は部下思いの優しい人」などの性善説も出てきています。

人を信じきる能力があったからこそ、光秀や秀吉のような出自もわからない人物が織田家中で飛躍できたのかもしれません。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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