毛利元就の【三矢の訓え】は後世の創作で元ネタがあった!?
毛利元就が三人の息子を呼び、矢を持たせて一本なら折れるが三本束ねたら折れないと教えた『三矢の訓え』の話は有名です。ところが、この逸話は後世に作られた創作と言われています。とはいえこのような話が作られる事が、毛利元就がいかに偉大な人物だったのかを示しているのだと思います。
毛利元就が残した『三子教訓状』
安芸の国人領主から中国地方の覇者となった毛利元就は、自分亡き後の毛利家を憂い3人の息子たちに『三子教訓状』を書き残しました。この書は元就直筆の物として重要文化財に指定され、山口県の毛利博物館に残っています。
内容は14条からなり、毛利・吉川・小早川の3家が結束し【毛利両川体制】を構築し維持していく事を説いています。この三子教訓状の内容が基になり「毛利元就の三本の矢の教え」として私たちに伝えられました。
三子教訓状には矢の話はないが「隆元・元春・隆景の三人が仲良くやらなければ毛利は滅んでしまうよ」という旨の話が書かれています。
『三本の矢』エピソード
ここで確認のため『三本の矢』エピソードを見ていきましょう。
毛利元就が臨終の床で隆元・元春・隆景の三人の息子を呼び寄せて、矢を一本ずつ与えて「折ってみよ」と命じ、息子たちが難なくこれを折りました。
今度は三本の矢を束にして折れと命じたところ、息子たちは誰も三本の矢を折ることができませんでした。元就は一本ではもろい矢も束になれば頑丈になることを示し、毛利家も三兄弟が結束すれば、他国から攻められることはないと説いたのです。
なぜ三本の矢が作り話なのか?
毛利元就が亡くなったのは1571年。しかし、長男・隆元はそれより8年前の1563年に41歳で急死していることから、元就の臨終の床に隆元はいるはずがありません。
当然、残された元春・隆景ともに中年と言われるお年頃。初陣も済ませていない少年であれば三本の矢が折れないのは分かりますが、百戦錬磨の武将である二人であれば矢を三本束ねたくらいなら簡単に折れると推測されます。
また、3人の息子を呼び寄せてとありましたが、実際に元就は10男2女の12人の子供がいます。実際に調べてみると、いろいろとツッコミどころが満載なので毛利元就の臨終の床での場面設定は明らかに作り話であると考えられます。
その後の毛利両川家
元就亡きあとの毛利・吉川・小早川は、お互い連携がうまくいかないまま関ヶ原の戦いへ突入しました。毛利輝元は西軍の総大将として参戦し、吉川広家は中立の立場をとります。また、小早川秀秋は西軍⇒東軍に寝返ってしまい西軍敗戦のきっかけを作ることになりました。
孫世代は元就の教えを守ることができず、毛利家の滅亡は免れましたが120万石から36万石に減封される事になりました。その後、小早川は断絶しますが毛利・吉川は続き、皮肉にも江戸幕府に引導を渡したのが毛利が藩主を務める長州藩の志士達だったりします。
現在、毛利元就の子孫は元就から数えて21代目の元栄氏が当主で、山口県防府市に在住しているとの事でした。元就には有名な三兄弟のほかにもたくさんの子どもがいたので、その子孫達は男系・女系とも多く、現在、数百人以上いるとも言われています。