『光る君へ』のその後…藤原道長の死後、頼通政権はどんな時代だったのか?
藤原頼通は道長の長男で『光る君へ』では渡邊圭祐さんが演じています。
ドラマは紫式部や道長が中心に進んでいることから、彼女たち死後の頼通政権時代は描かれないことでしょう。
そこで今回は藤原道長死後の頼通がどのような事をしたかもふまえて紹介します。
史上最年少の摂政就任
藤原道長の長男として生まれた頼通は異例のスピードで出世をします。15歳で従三位となり、18歳で参議を経ずに権中納言へ。20歳で正二位に昇進するとその2年後には権大納言に就きました。そして、内大臣就任後に26歳の史上最年少で摂政に就きました。
摂政就任当初は道長にアドバイスを貰い、時にはダメ出しをもらいながら政権運営をしていきます。道長死後は姉である彰子や藤原実資を頼りながら国難を切り抜けました。
父・道長の死後に苦難が待ち受ける
道長死から半年後に関東で平忠常の乱が勃発します。頼通は平直方を討伐に起用しますがうまくいきませんでした。その後、源頼信が鎮圧して乱は終結。この出来事を機に清和源氏が関東に勢力を持つようになりました。前九年の役では源頼信の長男・頼義が、陸奥の豪族・安倍氏と戦い、関東武士たちを率いて滅ぼしました。
平直方と源頼信は頼通や道長に仕えていた武士で、彼らはこうした戦乱で活躍して着々と力をつけ、武士の台頭の着火剤となっていきます。
平等院鳳凰堂の建設
頼通は道長が建てた別荘である「宇治殿」を寺院として建立します。
こうして「平等院」が完成し、極楽浄土を具現化した浄土式庭園の中心に建てられました。阿弥陀堂には阿弥陀如来坐像が安置されており、人々を浄土に導いてくれる存在で藤原氏から篤い信仰を集めます。江戸時代になるとこの阿弥陀堂が「鳳凰堂」と呼ばれるようになりました。
平等院鳳凰堂は当時の建築技術と芸術の粋を集めた建築物で現在も多くの観光客が訪れる名所となっています。
あの藤原実資は頼通政権ではどうなった?
光る君へでは秋山竜次さんの怪演でとても印象深いキャラなのが藤原実資。史実でもドラマでも臆することなく誰にでも意見するまっすぐな姿勢は権力者・道長も一目置いていました。
そんな藤原実資は頼通政権で中心人物として重用されます。
1021年に右大臣まで登り詰めナンバー2として25年間、政権を支え頼通の良き相談相手として活躍しました。実資も頼通に対して好意的に接していたと言います。
ちなみに女性好きは相変わらずで、頼通の弟(教通)と遊女をめぐり喧嘩をしたと【古事談】に残っています。また、彼の書いた『小右記』は当時を伺える貴重な史料として研究の対象となっています。
道長の「望月の歌」は小右記に書かれていた内容が基になっているそうです。
藤原道長が作り上げた藤原氏の全盛期。
道長の死後、嫡男・藤原頼通が50年以上にわたり政務を執り、その偉業を引き継ぎました。
その栄華は決して平坦なものではなく、平忠常の乱や前九年の役、疫病の蔓延など数々の苦難に見舞われます。そんな時代を乗り越え後一条天皇・御朱雀天皇・後冷泉天皇に仕え、父譲りの政治手腕でこの時代の安定と繁栄に大きな影響も与えました。
しかしながら、後冷泉天皇に嫁がせた一人娘が男子に恵まれなかったことが、晩年の権威の低下につながり、摂関政治の終焉へと向かい上皇が政治を行う院政が始まるのでした。