「打倒家康」を悲願とした真田昌幸は、生前に子の信繁に勝利の秘策を授けたのか
大河ドラマ「どうする家康」では、いよいよ大坂冬の陣が開戦された。このとき、すでに真田昌幸は亡くなっていたが、生前に子の信繁に「打倒家康」の勝利の秘策を授けたという。はたして、これが事実なのか考えることにしよう。
慶長16年(1611)6月4日、昌幸は65歳で真田庵(和歌山県九度山町)で病没した。九度山での幽閉生活は11年にも及んだ。昌幸の晩年は、病と貧困との戦いだった。今も九度山の真田庵には宝塔があり、昌幸の墓所とされている。
昌幸の火葬後の翌年8月、河野幸壽が分骨を持ち出し、長谷寺(長野県上田市)に納骨したといわれている(『先公実録』)。むろん、昌幸の死は家康に伝わったはずである。
昌幸は生活にゆとりがなかったので、「打倒家康」を考えたとは思えず、逆に家康に許しを希う状況にあった。ところが、死の間際になって、昌幸は信繁に家康に勝つための秘策を与えたといわれている。
以下、『武将感状記』の記述によると、常日頃から昌幸は、豊臣方が徳川方と合戦になったら、豊臣方に与して家康を攻め滅ぼそうと考えていた。囲碁好きの昌幸は、囲碁を戦いの備えや人員配置に置き換え、合戦の準備に余念がなかったが、危篤となり願いが叶わず、子の信繁に作戦を授けたという。
昌幸は死に臨んで、自身の秘策で家康を倒せなかったことを悔しがった。信繁は「ぜひ秘策を教えて欲しい」と昌幸に懇願するも、「信繁にできるはずがない」と拒否した。しかし、信繁のたび重なる懇願により、ついに昌幸も根負けし教えることにした。
昌幸は「3年も経たないうちに、必ず徳川方と豊臣方は合戦になり、豊臣方は必ず昌幸を招く」と予想した。昌幸の作戦は「約2万の兵を率いて青野ヶ原(岐阜県大垣市)に出陣し、関東の軍勢を防ぐ」というもので、その意図を信繁に質問した。
信繁はしばし考えたが、昌幸の意図が理解できなかった。信繁は、「豊臣方の約2万の兵は牢人ばかりで、大軍の徳川方の精鋭部隊を防ぐことは考えられない」と答えた。青野ヶ原は平坦な地で、守備には適していなかったからだ。
昌幸は、「自分のような名将が出陣すれば、家康は慌てて関東から奥州まで兵を募るので、その間に兵を引いて瀬田(滋賀県大津市)、宇治(京都府宇治市)で防御体制を築き、二条城(京都市)を焼き払ったあとは、堅城の大坂城に籠城するのだ」と説明した。
さらに、「夜討ち朝駆けで徳川方の軍勢を悩ませば、徳川方に味方した武将も豊臣方に戻るはずで、最後は徳川方を100里(約400キロメートル)の外に押し返すことが可能ではないか」と述べたのである。
しかし、昌幸は「仮に信繁が大坂城に籠もり、私(昌幸)と同じ作戦を提案しても、豊臣方の重臣・大野治長と治房の兄弟は兵法を知らないので拒否するだろう」と予言した。
続けて、「治長と治房の2人は軍勢を分散させ、無謀な戦いを挑んで自滅するとし、信繁に以後の情勢をよく見ておくように」と述べた。『武将感状記』は、「昌幸の予言は見事に的中し、その言葉に間違いはなかった」と結んでいる。
しかし、この話は疑わしいうえに、当時のたしかな記録で確認できない。後世になって、大坂の陣を知る事情通が「昌幸には、こうあってほしい!」と考えて創作したものだろう。そうでなければ、ここまで詳しく書けないと考えられる。
主要参考文献
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)