大河ドラマでは完全スルーだった、明智光秀の八上城攻めにおける残酷な所業
大河ドラマ「どうする家康」では、久しく見なくなった明智光秀。この間、光秀が八上城の攻防で行った残酷な所業を取り上げておくことにしよう。
織田信長が畿内およびその周辺の平定を目論んだ際、立ちはだかったのが八上城(兵庫県丹波篠山市)の波多野秀治だった。波多野氏はもともと信長と厚誼を結んでいたが、反信長勢力(大坂本願寺など)の誘いにより、寝返ったと思われる。
光秀が信長の命に応じて、丹波攻略を開始したのは天正3年(1575)のことである。その翌年、秀治は突如として裏切った。しかし、光秀は大坂本願寺攻撃にも動員されたので、なかなか丹波攻略に専念できなかったのである。
天正6年(1578)3月以降、光秀は八上城を兵糧攻めにするが、なお各地への転戦を余儀なくされたので、配下の者に戦いを任せるなど不徹底なところがあった。光秀が八上城攻撃に専念したのは、天正7年(1579)以降のことと考えられる。
一方の秀治は、兵庫屋なる商人に徳政を免除していたので、光秀の兵糧攻めにも関わらず、何とか兵糧を確保していたと思われる。ところが、戦いが本格化すると、徐々に城内の兵糧が欠乏し、籠城する将兵のモチベーションが低下していった。
光秀の作戦の指示は、実に苛烈なものだった。敵兵に一切の情けを掛けず、撫で斬り(皆殺し)にせよとの命令が伝えられた。飢えに苦しんだ波多野方の城兵は、やけくそになって城外に打って出たが、ことごとく討ち果たされたという。
それだけではない。光秀は「敵兵を討った分だけ恩賞を与える」と約束したので、将兵も必死になって敵兵を討った。結果、同年6月に八上城は落城し、城主の秀治らは安土城(滋賀県近江八幡市)に連行され、無残にも磔刑に処されたのである。
なお、光秀が秀治と和睦するため、母を人質として差し出したが、結果的に信長が秀治らを磔刑に処したので、怒った波多野方の残党により人質の母が殺されたという説がある。それは、質の劣る『総見記』などの史料に書かれたもので、史実とは認められない。