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【深読み「鎌倉殿の13人」】次回殺害される、坪倉由幸さんが演じる工藤祐経とは何者か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
工藤祐経の本拠があった、現在の静岡県伊東市。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の22回目では、久しぶりに工藤祐経が登場した。祐経とはいかなる人物なのか、詳しく掘り下げてみよう。

■工藤祐経とは

 坪倉由幸さんが演じる工藤祐経は、ドラマの最初のほうに登場した。風呂に入っていないのか、非常に汚らしく、皆が酷い臭いに閉口していた。一条忠頼を謀殺した際は、何もできなかったので、非常に情けない人物というイメージが残る。祐経とは、いったい何者なのか。

 祐経は祐継の子として生まれたが、父の祐継は祐経の幼少期に病没した。祐継の遺言により、後見人を務めたのが伊東祐親で、のちに祐経は祐親の娘を娶った。しかし、祐親は祐経に酷い仕打ちを行った。

 祐親は祐経が領する伊東荘(静岡県伊東市)を奪い取り、その上、祐経に嫁がせていた娘を離縁させ、土肥遠平に嫁がせた。むろん、祐経は納得したわけではなく、安元2年(1176)10月に反撃を決行した。

 祐経は祐親の殺害を計画し、祐親と子の祐泰が伊豆奥野(静岡県伊東市)に狩りに出掛けた際、郎党に襲撃させたのである。襲撃の際、祐親は難を逃れたが、子の祐泰は無念にも落命した。

 祐泰には妻との間に一萬丸、箱王という2人の兄弟がおり、元服の際に曽我祐成、曽我時致と名乗った。曽我兄弟は、建久4年(1193)に祐経を討ち、父の仇を取ったのである。

■重用された祐経

 祐経は祐泰を討ったものの、源頼朝には重用された。治承4年(1180)、頼朝が打倒平家の兵を挙げると、祐経はその配下に加わった。祐親は頼朝に敵対し、自ら命を絶ったので、祐経は伊東荘を奪還したと考えられる。その後、祐経は平家追討のため、源範頼に従って出陣した。

 祐経は歌舞音曲に優れていた。元暦元年(1184)4月の一ノ谷の戦い後、平重衡が捕縛され鎌倉に連行された。宴席の際、祐経は重衡の求めに応じ、鼓を打って今様を披露したという。

 文治2年(1186)4月、義経の愛人・静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際、祐経は鼓を打った。建久元年(1190)、頼朝が上洛して右近衛大将になったとき、参院の供奉をした記録が残っている。祐経は頼朝の身辺にあって、重用されたのは明らかである。

 建久元年(1190)7月、双六の会が大倉御所で開催されたとき、祐経は遅れて参上したので、座る場所がなかった。すると、祐経は先に来ていた加地信実(佐々木盛綱の子)を退かせて、その場所に座った。

 すると、怒った信実が石礫を祐経の額に投げつけたので、祐経は怪我をした。頼朝は激怒したが、信実に道理があるとし、佐々木親子に遺恨は持たないと述べたという。祐経が断りもなく割り込んだのだから、頼朝の判断は正しいといえよう。 

■まとめ

 ドラマのなかでは、情けない役回りの祐経であるが、実は立派な武士だったことがわかる。それは武功のみならず、歌舞音曲なども評価された。次回、おそらく祐経は、曽我兄弟に殺害される。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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