去り行く男との約束を守った武豊と、演出したGⅠ調教師の物語
香港で語られた物語
「じゃあ記念写真を撮れるように、頑張ってきますよ」
武豊はそう言って馬場へ飛び出して行った。
12月11日に香港で行われた香港国際レース。メインの香港カップ(GⅠ)でジャックドールの手綱を取った武豊。
「すごく楽しみにしていたけど、枠入り直前に変にテンションが上がり、ゲート内でジッとしてくれませんでした。慌ててゲートボーイがついたけど、それでもスンナリとスタートを切れませんでした」
結果は残念ながら7着。レースが終わった夜、宿泊先のホテルで悔しそうにそう語ると、同席していた吉田豊に向かい、話を続けた。
「ジョッキーはそれぞれ色々な思いを持ってレースに騎乗しているよね……」
吉田豊は同じレースでパンサラッサに騎乗していた。簡単に乗り代わりになるのも当たり前の今の時代、矢作芳人調教師との長年にわたる人間関係が紡ぐタッグ。思うところがあったであろう吉田は、武豊の言葉に深く頷いた。
すると、武豊は「それは平場のレースでも同じです」と言い、更に続けて、面白いエピソードを話し始めた。
去り行く男に粋なプレゼント
「ジャパンCの日の事でした。田村(康仁)調教師から第1レースの騎乗依頼を受けました」
当日の第1レースはいつもより早い午前9時31分の発走。ダート1400メートルの2歳未勝利戦で、依頼されたのはプラチナジュビリー。アスクビクターモアで菊花賞(GⅠ)を勝った田村康仁厩舎の馬だった。
パドックで跨り、地下道をくぐり、馬場へ向かう坂を上っていると、曳いている厩務員から声をかけられた。
「『僕はこれが最後のレースなんです』と言われました。まだ若い子だったから『え?』と聞き返すと『田舎に帰るんです』と返されました」
その厩務員の名は中川京介。1990年3月1日生まれの32歳。武豊が言うように、JRAを辞めるには若い年齢だが、本人に確認すると、様々な想いが窺い知れた。
「父親が園田で調教師をしていて、元々自分もそこで働いていました」
その後、JRAの競馬学校に合格し、JRA入りを決意。田村康仁厩舎ひと筋で働いてきた。
「ずっと調教助手をしていたのですが、今年になってから持ち乗りに変わりました」
『持ち乗り』とは2頭の担当馬の面倒を見ながら、その担当馬の調教にも騎乗する持ち乗り調教厩務員の事。調教だけに跨る調教助手と、調教には乗らずに馬の面倒だけを見る厩務員を足して2で割ったような役職だ。
園田からJRA入りした中川は、収入面だけを考えれば、以前よりも大分、満たされるようになった。しかし、心の片隅には、いつも故郷を慕う気持ちがあった。
「苦労して競馬学校に入れたわけですけど、果たして一生、ここでやっていくので良いのか?という想いは常に持っていました」
結婚をして子宝にも恵まれた。来年の2月には2人目も生まれる。金銭面を考えたら、尚更、現在の暮らしを守った方が良く思える。しかし……。
「お金よりも大事な事があると思いました。このまま地元に戻らないでいれば、いつか後悔する。そう思ったのです」
そんな胸の内を、夫人に相談した。すると……。
「『私はついていくだけだから、やりたいようにやってください』と言われて決心がつきました」
園田に戻る事を決意。田村に告げた。こうして迎えたジャパンCデーのプラチナジュビリーが、中川にとって担当馬を競馬場へ送り込む最後のレースとなった。
中川は言う。
「プラチナジュビリーは、本当なら年明けに使う予定でした。でも、その時期だと僕がもう辞めているので、僕のいるうちに使ってくれる事になったようです」
この点を田村に聞くと「決して中川君のために無理矢理使ったわけではない」と口を開いた後、次のような答えが返ってきた。
「前走で2着に来たので、少し間を開けて年明けに使えば確勝級だと考えました。でも、レース後の歩様も良いし、元気だったので、中川君の担当しているうちにもう1度、使えるな!!となりました」
そこで去り行く仲間に粋なプレゼントを用意した。
鞍上に日本のナンバー1ジョッキーを手配したのだ。
「ラストランで武君に乗ってもらえれば、一生の思い出になるでしょう。そう思って、依頼したところ、快く受けてくれました」
守られた約束
もっとも、武豊にはそんな厩舎の事情はひと言も告げなかった。再び田村。
「うちらの都合に関係なく、ジョッキーには気持ち良く乗ってもらいたいと思いました。それでプレッシャーを感じる人ではないのは分かっていたけど、余計な事は言わない方が良いと判断したので、あえて言いませんでした」
一方、この計らいが嬉しかった中川は、天才ジョッキーに言った。
「自分のラストランで武さんに乗ってもらえるなんて、良い記念になりました」
それに対しての武豊の答えが冒頭に記したモノだった。
「じゃあ記念写真を撮れるように、頑張ってきますよ」
こう言って馬場へ消えた約10分後、武豊は先頭でゴール板を通過した。
「今年から持ち乗りになった自分にとって、担当馬が勝つのはこれが初めてでした」
最初で最後の勝利。感慨にふけっていると、レースを終えた武豊が戻って来て、言った。
「約束を守ったよ」
勝利後、更に続いたエピソード
中川の門出を最高の形で祝った武豊だが、格好つける事もなく「年寄りだから朝早いのは強いんです」と、おどけると、更に続けた。
「レースが終わってから『厩務員さん、辞めるんですって?』という感じで田村先生に聞いたら、そこで初めて『そうなんだよ』と言われました。こちらが聞くまで一切、そんな話をしなかった田村先生が、凄く格好良く見えました」
そんな事はないと否定した田村は「それよりも……」と言って新たな逸話を語った。
「同じレースに武君が懇意にしているオーナーの馬が使っていたから『そちらに乗らないでよかったの?』って聞いたら『田村先生の馬を先に受けていましたから』と答えられました」
漢気を感じ「その上で勝てるなんて、自分も中川もラッキーだったよ」と言った田村に対し、武豊が更に答えた。
「ラッキーだったのは僕の方です」
田村が続ける。
「間髪入れずにそう答えられる武君は、本当に素晴らしい人格者だと思いました」
そして、改めて言った。
「勝てた事で、こんな凄い人に迷惑をかけずに済んだかと思うと、本当に良かったです」
ヴェラアズールの勝利で盛り上がったジャパンCの僅か6時間ほど前に、こんなドラマが人知れずひっそりと起きていた。田村は今日も美浦で汗を流すが、中川は既にトレセンを去り、年明けからは園田の父の下で働く。そして、武豊は変わらず馬に乗り続けている。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)