ルメール騎手インタビュー(後編)~現在の活躍につながるインド競馬との縁とは?
昨年のリーディングジョッキー、クリストフ・ルメール騎手インタビューの後編です。
現在の日本での活躍につながるインド競馬とのエピソードや、今年に懸ける想い他を記します。
ドバイでのアクシデント
まずは前編の続きとなる2024年の海外遠征から。前編では好結果だったレースについて話していただいたが、海外での思い出は良い事ばかりではなかった。現地時間3月30日に行われたドバイワールドC(GⅠ)に挑んだデルマソトガケらに騎乗する予定で中東入りした彼を悲劇が襲った。
ドウデュースやナミュールらが挑んだドバイターフ(GⅠ)でアメリカのキャットニップルに騎乗したルメールは、最後の直線で馬が故障し、馬場に投げ出された。
「前走のGⅠで好勝負(ペガサスワールドCターフ3着)をしていた馬だったので、チャンスがあると考えていました。でも、スタートが切られると、道中はずっと外へモタれ気味で、正直嫌な感じがありました。それでも直線へ向いた後も手応えはあったのですが、突然故障したので、僕は何も出来ないまま落とされました。記憶が飛ぶ事もなかったので、凄く痛くて、重症だと思いました。でも、後続の馬達が避けてくれたお陰で、肋骨と鎖骨の骨折だけで済みました」
折れた骨が肺を傷つけていたそうで、充分重症と言うに値すると思うのだが、本人的には「思ったほど大怪我ではなかった」そうだ。
「落ちた後、すぐに日本には戻らず、しばらくドバイで過ごしました。ドバイレーシングクラブが競馬場のホテルを用意してくれたし、ドクターの予約もしてくれました。ワールドCデーの後はそれまでがウソかと思えるくらい静かな環境になったし、暖かい所だったのも怪我のリカバリーのためには良かったです。勿論、怪我をしないにこした事はないですけど、妻のバーバラも一緒に残ってくれたので、思った以上に快適には過ごせていたと思います」
デビュー後すぐ海外遠征した理由
中東遠征は今年も既に依頼が来ているそうだが、その前にインドからの騎乗依頼も舞い込んだ。そのため、1月下旬には日本を発ち、現地時間2月2日にはムンバイのマハラクスミ競馬場で行われるインドダービーに騎乗する予定でいる。実はこの依頼、昨年も来ていたのだが、その経緯については次のように語る。
「インドは僕がフランスで騎手デビューしたばかりの頃に遠征し、長期滞在した事がありました。その時、お世話になった先輩騎手が現在は調教師になられていて、彼からの依頼なんです」
前年は直前に言われたためさすがに日本で既に組んでいた騎乗予定を崩してまでは行けなかったが、今年は先方も学習し、年が明ける前から連絡を寄越した。その結果、20年以上ぶりとなるインドでの騎乗が実現する運びとなったわけだ。
「多くの旧友らに久しぶりに会えるのが、今から楽しみで、ワクワクしています」
インドの競馬というと私のようなオールドファンには第1回ジャパンCに出走したオウンオピニオンが思い出される。一方、最近のファンだと「インドで競馬があるの?」と驚かれた方もいるかもしれない。しかし、実はこのインド競馬、ルメールが日本をベースにする事になった歴史とも無関係ではない。と、いうか実は深い関わりがあったのだ。
現在の日本のリーディングジョッキーは、皆さんご存じのように生まれ故郷のフランスで、1999年に騎手としてのキャリアをスタートした。かの国でもほとんどのジョッキーが競馬学校を経てデビューする中、彼は競馬学校に通っていなかった。アマチュアライダーから、プロになったのだ。
「その当時のフランスは少し変わったルールがあって、僕のように競馬学校を卒業しないでジョッキーになった者は、最初の1年間、減量の特典がもらえませんでした」
デビュー年の勝利数が70に達しない時点で、2年目に初めて減量がもらえるという規則だった。
競馬学校卒業生でない新人騎手には非常に厳しいルールで、ルメールも果たしてどのくらい乗せてもらえるのか、見当すらつかなかった。そこで、彼は1つの手を打った。
「何の実績もないまま、1年目にいきなりアメリカへの遠征を敢行しました」
アメリカへ行けば乗れるという保証などなかった。しかし、フランスにいてもどのくらい乗れるか分からない。ならば「かねてより憧れのあったアメリカ競馬へ挑もう」と考えたそうだ。
こうしてカリフォルニアへ渡ると、当時、かの地で開業していたフランス人調教師のパトリック・ビアンコーヌを訪ねた。オールドファンには懐かしく感じられるだろう彼は、管理馬に対する薬物使用等でしょっちゅうお騒がせする調教師だが、同郷から挑戦しに来た若者には、優しく手を差し伸べてくれた。そのお陰もあって、ルメールは調教だけでなく、レースでも騎乗出来た。
「ただ、アメリカのスタートから押して行くスタイルは僕には合わないと感じました。それが良い、悪いではなく、自分にはフランスのように序盤はゆっくりと馬を御しながら駆け引きをする競馬の方が面白いと思えたんです」
結局アメリカを引き上げてフランスに戻るのだが「決して無駄な遠征だったとは思っていない」と続けた。
「違いを自ら体験出来た事は必ずや将来に役立つと思いました」
結局デビュー年は9勝するにとどまったが、2年目は2.5キロの減量が利く上に、果敢にアメリカまで挑んだ姿を見てくれていたアンドレ・ファーブルから声がかかり、所属となった。ファーブルはフランスのナンバー1調教師で、厩舎の先輩騎手にはあのオリビエ・ペリエ(引退)がいた。加えて、フランスにはレースで自厩舎の騎手を起用すると更に1キロの減量が利くというルールがあったため、2年目のルメールは騎乗数も勝利数も急増。目立つ存在になった。すると、他の調教師からも声がかかり、1件のある面白いオファーも届いた。
インド競馬との縁
「エリック・ダネルという調教師が、ルーヤというインド人馬主の馬を預かっていたのですが、彼から『ルーヤさんがインドで乗ってくれるフランス人ジョッキーを探しているのでどうか?』と打診されました」
インドには行った事がなかったため、一瞬、悩んだが、当時はW・スウィンバーンやW・カーソン、G・スターキーといったヨーロッパのトップジョッキーが、シーズンオフにはこぞってインドへ遠征していた事や、先輩騎手の勧めもあって、最終的には首を縦に振った。
結果的にこの決断が、ルメールの騎手人生を左右する事になる。
インドへ渡った彼はかの地での初騎乗を初勝利で飾ると、その後、1日5レースに騎乗して4勝、その翌日には4レースで3勝と大活躍。ローカルGⅠでも優勝し、一気にその名を轟かせた。
すると、ある日、フランスから1本の電話が入った。
「パトリック・バーブというエージェントが僕の活躍に目を留めて『帰国後に契約しよう』と言ってくれたんです」
こうしてフランスに戻ったルメールはバーブと契約をした。そして、この出会いが新たな出会いを生む。このバーブが当時、懇意にしていた日本人をルメールは紹介してもらった。それが社台ファーム代表の吉田照哉氏だった。
こうして日本との繋がりが出来たルメールは、後に吉田照哉氏が契約馬主となり、短期免許を取得すると、05年には同オーナーのハーツクライ(名義は社台レースホース)に騎乗して当時史上最強といわれたディープインパクトを破り有馬記念(GⅠ)を制覇。ルメールにとって初のJRAの重賞制覇となったこの好騎乗を名刺代わりに、その後は毎年、短期免許で来日。2015年からは通年免許を取得し、今ではすっかり日本には欠かせないジョッキーとなったのは皆さんご存じの通り。昨年は2年連続7度目のチャンピオンジョッキーの座に輝いた。
今年に懸ける想い
「1度は怪我で、もう1度は自主的に休みを取り、合計で約2カ月休んだけど、リーディングをキープ出来たのは良かったです。『怪我は仕方ないとして、夏に休んでいなければ200勝出来たのでは?』と言う人もいましたけど、自分としては夏休みを取ったのが良いリフレッシュになって、復帰後のモチベーションの維持につながったと思っています。今年に関してはそのあたりはまだノープランですが、3年連続でのリーディングは当然、狙いたいです。また、厩舎関係者と共にチームの一員として大レースを勝ちたいという気持ちを常に持っているので、GⅠもたくさん勝っていきたいです!!」
そして最後にひと言、言った。
「去年はジョッキーが亡くなってしまう事故もありました。競馬なのでどうしても避けられないケースはありますけど、可能な限り大きな事故が起きないように、僕も気をつけてやっていきたいです」
事故や怪我のない事を祈りつつ、不動のリーディングジョッキーが今年も変わらぬ活躍を見せてくれる事を願いたい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)