伯楽を父に持ちながらも、合格に18年要した男の「今年、受かりたかった理由」
父は伯楽
12月初旬、旧知のホースマンからの着信があった。電話の主は、新規調教師試験に合格した室井潔。受話器の向こうで、言った。
「やっと平松さんの取材を受けられます」
1975年7月生まれの彼と知り合ったのはかれこれ20年前。後にマイルチャンピオンシップ(GⅠ)や香港マイル(GⅠ)を勝つハットトリック(栗東・角居勝彦厩舎、解散)が活躍し始めた頃だった。
祖父は繋駕競走のライダーで、父は宇都宮競馬(閉場)の調教師だった室井康雄。通算43勝をあげたブライアンズロマンやNARの年度代表馬に選定されたベラミロードらを育てた伯楽だ。
「厩舎住まいではなかったので、馬の世界はキツくて危険というイメージを勝手に抱いていました」
競馬場へ行く事はなかったのかを問うと、次のように答えた。
「女きょうだい(姉と双子の妹)ばかりだったので、一緒に遊ぶよりも、祖父に競馬場へ連れて行ってもらっていた事の方が記憶に残っています」
もっとも「競馬を見に行くというより電車に乗れるのが楽しみで」行っていたと言う。
「それでも僕が競馬場へ行けば父は嬉しそうで、帰りは電車ではなく父の運転する車で帰ったのが良い思い出です」
野球に打ち込んだ彼が、競馬の世界に入ろうと考えを改めたのは大学生になってから。一浪して専修大学に入学。キャンパスライフを謳歌していた頃、父の名がスポーツ新聞紙上に躍った。ベラミロードが幾度もJRAのレースに挑んだのだ。
「野球をやっていたようにスポーツ好きだったので、大舞台に挑む姿が格好良く見えました。自然と自分もそうなりたいと考えるようになりました」
父に伝えると「JRAを目指せ」と助言された。息子と一緒に働きたいという本人の願いよりも、息子自身の将来を考えてのアドバイスだった事が、ゆくゆく分かる。宇都宮競馬は残念ながら2006年に閉場するのである。
「一緒には働けなくても、僕が競馬の仕事に就こうとした事に対しては喜んでくれました」
サンデーサイレンス産駒との出合いと別れ
大学時代から乗馬を始めた後、サンファームに就職。人を介してアイルランドの厩舎でも跨った後、競馬学校に入学。卒業後の03年7月から清水美波厩舎(解散)で、トレセンのキャリアをスタートすると、清水に言われた。
『君がこの厩舎に来て良かったと思えるように私も頑張るから、君も皆にそう思ってもらえるように頑張りなさい』
少しでも期待に応えられるように一所懸命、必死に働いた。すると、師匠も約束を守るように、思いもしないプレゼントを用意してくれた。
「経験の浅い自分にいきなりサンデーサイレンスの牡馬を任せてくれました」
04年5月、既走馬相手の未勝利戦でデビューするとこれを快勝。2戦目の牡丹賞では32秒台の末脚を繰り出し連勝。こうして重賞に挑むと2番人気の支持を受けた。
「未勝利戦は僕自身の初勝利でもありました。重賞の時は直前に自分が気胸で入院してしまったのですが、レース当日は福島競馬場まで観に行きました。体重が減り続けた事もあり、結果は9着でしたけど、短期間でなかなか出来ない経験を次々とさせてもらいました」
しかし、室井がこの馬に寄り添ったのはここまで、だった。
「放牧に出て、なかなか戻って来ないので、清水調教師に聞いたら『申し訳ないけど転厩になった』と言われました」
この馬が、転厩後の05年に国内外でGⅠを勝つハットトリックだった。
私はこの事を当時、記事にした。すると、角居勝彦調教師(当時、引退)から連絡が入り「室井君を紹介してほしい」と言われた。室井が振り返る。
「清水調教師には謝られたし、角居調教師からは『室井君が大事にしてくれていたから転厩後も活躍が出来た』と、GⅠ勝ちの記念グッズを贈ってもらえました。でも、正直な話、僕は何もしていなかったし、自分の馬という感覚もありませんでした。僕がそのまま担当していても同じようにGⅠを勝てたとは思えないので、むしろあんな素晴らしい馬に少しでも携わらせてもらえて良かったと考えていました。担当させてくれた清水調教師にも、GⅠ馬に導いてくれた角居調教師にも感謝しかありませんでした」
父の死
こうして少しずつ経験を積むと、トレセン入りした時から目指していた目標へ、具体的に歩を進める事にした。調教師試験を受験したのだ。
「父には『調教師は甘くないぞ』と言われました。試験は、最初の頃はいつも一次で落とされました。一次を合格出来たのは4回目の受験だったはずです」
すると翌年、そのまた翌年も一次は突破。いずれも二次の壁に阻まれたが、プライベートでは結婚し、子宝にも恵まれ概ね順風満帆かと思われた。
そんな14年の事だった。清水調教師が定年となり厩舎を解散したため、武井亮厩舎へ移った時の話だ。調教師を引退後、実家で農作業をしながらノンビリ過ごしていた父を突然、病魔が襲った。
「肝臓を癌に侵され、見つかった時には全身に転移していました」
調教師試験に合格するという報告を届けたかったが、願いはかなわなかった。父はあっけなく逝ってしまった。
「僕の結婚式のDVDを何度も繰り返して見ていたと、後に母から聞きました。孫も凄く可愛がってくれたのに、調教師になるところを見せてあげられなかったのが心残りです」
今年受かりたかった理由
父の他界後、高橋文雅厩舎を経て、17年から大和田成厩舎へ移った。その間も試験は受け続けた。
「大和田調教師はいつも意見を聞いてくれました。安心してついていける先生で、調教師試験に関しても黙って見守ってくれました」
サポートしてくれたのは大和田だけではなかった。3人の子供がいる室井は言った。
「結婚前から試験を受け続け、毎年不合格になってしまっていたのに、妻は家事や子育てを一手に受け入れてくれ、応援してくれました」
今年、どうしても受かりたい理由があった。
「中学受験に挑戦している長男がいます。ひと足早く僕が合格する事で、何度跳ね返されても諦めずに挑み続ければ何とかなるという姿を見せたいと思いました」
そんな気持ちに競馬の神様が応えてくれた。室井はついに難関を突破。実に18度目の正直だった。
「大和田厩舎に移ってからも3年連続で一次に受かった事がありました。でも次の年に一次すら受からなかった時はショックでした。一昨年、一次で手応えがあったのに落ちた時も落ち込みました。また、昨年は解答欄を間違えるという初歩的ミスをし、なんとも言えない憤りを感じました。中には『もうやめた方が良い』と言ってくる知人もいましたが、ここまで積み上げたモノもあるので投げ出す気にはなりませんでした」
やめられなかった理由の1つに、助けてくれる人達がいた事もあった。
「清水調教師も喜んでくださいました。妻に報告した時は、思ったほど喜んでくれず驚いたのですが、後から『インフルエンザに罹って体調が悪かっただけで、本当は抱きつきたいくらい嬉しかった』と言ってもらえました。これからは調教師として、助けてくれた多くの人に恩返ししていきたいと考えています」
これからやらなくてはならない事
開業後の調教師像に関しては、次のように語った。
「従業員が朝、仕事に出る時に前向きに臨めるような厩舎にしたいです。『仕事に行くのが嫌だなぁ……』と思う事のない職場作りをしていきたいのです」
その上で「勝負の世界なので成績を上げないとダメで、そのためには努力をしないといけないのは大前提」と言い、更に続けた。
「未勝利レベルの馬を、技術で重賞まで勝たせるのは難しいでしょう。でも、能力を最大限発揮させてあげられれば1つは勝てるかもしれません。能力の高い馬が厩舎に来た時に100%の力を発揮させるためにも、普段からそういう姿勢でやっていく事が大切だと考えています」
その考えは実体験を元にしたものでもあった。
19年、厩舎にドノスティアという馬がいた。
「スタートが遅くて追い込み切れないという馬でした」
新馬戦から7戦にわたり掲示板を外さなかったが、勝つ事も出来なかった。
「内田博幸さんに連続で乗ってもらうと、出鞭を打ってハナへ行き、逃げ切ってくれました。結局その1勝だけで後は勝てませんでしたけど、何も考えずにいれば同じ競馬を繰り返し、未勝利のまま淘汰されたかもしれません。なかなか成績を出せない馬を、厩舎の皆で考えながら色々な手を打って勝たせてあげる。開業後はそんな姿勢を貫かなくてはいけないと考えています」
開業は順調にいけば26年の春の見込み。その前に、室井にはやらなくてはならない事がある。
「父は、JRAには全くパイプがない人だと思っていたのですが、ブライアンズロマンとかベラミロードでそれなりに繋がっている人もいて『大したモノだ』と感服させられました。この正月には栃木の実家に帰郷して、墓前に『調教師試験に受かったよ』と報告にしに行きます」
喜んでくれるのか、はたまた「調教師は甘くないぞ」とまた言われるのか。室井の胸にははたしてどんな思いが届くだろう。
(文中敬称略・写真撮影=平松さとし)