Yahoo!ニュース

織田信長の葬儀に出席しなかった織田信雄と信孝が揉めていた理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
木曽川。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、織田信雄と信孝が揉めていた事情がスルーされていた。2人が揉めていた理由について、詳しく考えることにしよう。

 結論を先に言うと、そもそも信雄が尾張、信孝が美濃を領有することになっていたが、その国境をどう画定するかによって、双方の関係はこじれていたのである。

 天正10年に比定される8月11日付の羽柴秀吉書状(丹羽長秀宛)によると、尾張・美濃の境目について、信孝から長秀と秀吉に問い合わせがあった(「専行寺文書」)。それは、美濃と尾張の国境を「大河(木曽川)切り」にしてほしいという要請だった。

 秀吉は「大河切り」に賛意を示し、信雄にそう申し入れることとし、長秀も同様にしてほしいと申し述べたのである。現在、愛知県と岐阜県の国境は、木曽川を境にしているが、秀吉の時代の美濃と尾張の国境は、木曽川の北部を流れる境川だった。

 木曽川が美濃と尾張の国境になれば、信孝の領土は広くなる。信孝は自身の領土を拡張すべく「大河切り」を申し出たが、むろん信雄が素直に応じるはずがなかった。

 国境問題はセンシティブであり、容易に解決はしなかった。同年9月3日、勝家は長秀に書状を送り、尾張・美濃の国境問題について相談した(「徳川記念財団所蔵文書」)。信雄と信孝は話し合いで解決しないので、この問題の解決を宿老衆に委ねたのである。

 信孝は「大河切り」を主張していたが、美濃東三郡(可児・土岐・恵那)を信雄に割譲すると交換条件を持ち出した。一方、信雄は「国切り」(境川を美濃・尾張の国境とする)を主張したので、双方が譲ることなく、話は平行線をたどった。

 国境付近では諸給人、百姓の帰属問題があったが、勝家は境目の国人と信雄、信孝の双方の奉行・宿老衆が調査するよう助言した。新たに下々の者の帰属問題が生じたときは、その都度奉行を遣わして、解決すればよいとの見解を示したのである。明確に国境を画定するのではなく、問題が生じればその都度話し合うこととし、明確な判断を避けたのだ。

 尾張・美濃の国境問題の結末は不明であるが、その後、解決されたことが確認できないので、信雄・信孝の溝が埋まらなかったようだ。国境問題は互いが納得する形で解決せず、不満だけが残ったのである。この問題は、その後も長く尾を引いたのである。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

渡邊大門の最近の記事