【深掘り「鎌倉殿の13人」】比企の乱後、一幡は小御所で焼死したのか? 生き延びたのか
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の32回目では、一幡がついに殺されてしまった。一幡は焼死したのか、生き延びたのか、詳しく掘り下げてみよう。
■比企の乱と一幡
一幡が源頼家の子として誕生したのは、建久9年(1198)のことである。その翌年、一幡の祖父にあたる源頼朝が亡くなった。
建仁3年(1203)7月、頼家が重篤な病に罹り、もはや回復の見込みがないと予想された。普通に考えると、頼家に何かがあった場合、嫡子たる一幡があとを継ぐのが普通である。
しかし、頼家の祖父・北条時政は、一幡と千幡(頼家の弟:実朝)に頼家の遺領(地頭職など)を分割して相続させようとした。
その理由は、頼家の後ろ盾だった比企能員を牽制するためだった。結果的に能員は時政の提案を拒否し、時政によって殺害された。そして、同年9月2日、能員以下、比企一族は事実上滅亡したのである。
■一幡は死んだのか、生き延びたのか
ここで問題になるが、一幡は比企一族と運命を共にし、小御所で焼死したのかということである。
ドラマで放映していたように、小御所から救い出されたが、あとで北条義時の命を受けた善児に殺害されたというのはフィクションである。そもそも善児は、実在の人物ではない。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』は、一幡が小御所で焼け死んだと書いている。後世に成った『北条九代記』にも、同じことが記されている。
『吾妻鏡』によると、源性なる僧侶は、現場で一幡の遺骨を発見し、乳母は焼け残った小袖を見付けたという。その後、源性は一幡の遺骨を高野山(和歌山県高野町)に葬った。
一方、近衛家実の日記『猪熊関白記』によると、最初は一幡と能員は討たれたと書いていた。しかし、のちに聞いたこととして、一幡は討たれなかったが、能員は討たれたと記している。つまり、一幡は生き延びたことになろう。
慈円の歴史書『愚管抄』は、一幡は母に抱かれて逃れたが、11月3日、義時は藤馬なる郎党に命じて、一幡を殺害させたと記している。ほぼ同じことは、『武家年代記』にも書かれている。大河ドラマの内容は、『愚管抄』をアレンジしたものだろう。
■まとめ
一幡が生きていたのか、死んでしまったのかは、今となってはわからない。一次史料の『猪熊関白記』を優先すべきであるが、この記事も伝聞に過ぎない。
強いていうならば、一幡は焼死したと思われていたが、その後の探索で発見され、殺害されたということになろうか。