【戦国時代】猛将にもひるまない女武将にして、慈愛の女神となった戦う姫君!立花誾千代(ぎんちよ)とは?
今から少し以前の2017年。大河ドラマ『おんな城主 直虎』では、柴咲コウさん演じる井伊直虎の活躍が描かれました。
戦乱の世を凛々しく生き抜く女性は、物語としてもたいへん華がありますが、同じ時代を見渡すと、彼女に勝るとも劣らない女傑が存在しています。
その一人と言えるのが立花誾千代(たちばな・ぎんちよ)、彼女の夫は西国で最強とも呼ばれた武将、立花宗茂(むねしげ)です。しかし、もともと2人が仕えていた主君の大友家は、島津家の進撃に押され窮地に。
また大友家のあとは豊臣秀吉を主君としますが、その恩義から宗茂は関ケ原の戦いで石田三成に味方、しかし時代は徳川家康の天下となってしまいます。
全体として苦境の多い状況ばかりでしたが、彼女はどのような生涯を送ったのでしょうか。
父は伝説の名将
まず彼女は父親もただ者ではなく、立花道雪(どうせつ)という猛将でした。『雷神』『鬼道雪』といった異名でも呼ばれ、その強さは並みいる戦国武将の中でも、頭ひとつ抜けた存在です。
しかし立花道雪に男の子どもは生まれず、その家督を継いだのが当時としては異例中の異例ながら、娘の誾千代でした。
それは同時に拠点としていた立花城のトップ就任であり、ここに女城主の立花誾千代が誕生したのです。ちなみにこの立花城の立地は、九州進出を目指す毛利氏なども狙うなど、要衝かつ激戦地でした。
しかも驚くべきはこのとき、誾千代は7歳という若さでした。この記録は現在も大分県教育委員会が所蔵する書類に、主君の大友宗麟(そうりん)の署名とともに、家督の相続を認める文章が残されています。
ただ当時の価値観としては女性、それも幼子が城主となるのは常識外れで、道雪の元へは男子の養子縁組の話も、持ちかけられていたといいます。
しかし何故かそれを頑として拒否しており、その理由は推測の領域になりますが、彼ほどの武将が大事な跡取りを酔狂で決めたとは、考えにくいものがあります。
もしかすると誾千代がこの歳にして、並々ならぬ才能の片鱗を見せており、父としてそれを認めた可能性も考えられます。
ちなみに誾千代の“誾”の一字には“穏やか”“和やか”という意味がありますが、実際はそれとは真逆のおてんばで、気性も激しかったという言い伝えがあります。
また彼女は成長すると“西国一”とも伝わる美貌を備えつつ、ナギナタや鉄砲など武芸の腕前も男性の武者に、引けを取らなかったとも言います。このエピソードだけでも、何とも華がある人物で、惹き込まれるものを感じさせられます。
戦国最強の夫婦誕生か?
さて立花城に女城主が誕生して6~7年後、誾千代は婿を迎えることになりましたが、その相手は同じく大友家の名将、高橋紹運(たかはし・じょううん)の息子でした。
道雪も認める才覚を備えたその人物こそ宗茂で、さすがに彼を迎えるからには、立花家の当主は宗茂となりました。
以後、誾千代は妻として彼を支えつつ、一族を切り盛りして行く立場となります。それにしても2人は稀代の名将である立花道雪と高橋紹運という、2人の父から薫陶を受けた夫婦であり、ある意味で戦国最強の夫婦と言えるかも知れません。
宗茂が出陣して城を留守にしているとき、誾千代は武士たちの妻や侍女を集めて“女子組”と呼ばれる集団を組織。率先して防衛を担う気概にあふれていたと言います。
そんな誾千代と宗茂ですが2人を取り巻く情勢は厳しく、主君の大友家は強力無比な島津軍の攻勢に押され、風前の灯に。頼りの名将である立花道雪は合戦の最中に陣中で没し、高橋紹運も最後まで見事に戦い切ったものの、壮絶な討ち死にを遂げていました。
それから立花家の主君は豊臣秀吉に変わりますが、さらに時は流れ、宗茂が関ケ原で味方した西軍は完全敗北。最強勢力となった徳川家から、討伐の対象にされてしまいます。
誾千代にとっては生涯で最大の苦境ながら、エピソードという視点では、一番の見せ場がやってきます。
逸話によれば関西から落ちのびて疲弊している宗茂軍一行を、誾千代は自ら出迎えに行き、当時の拠点である柳川城への帰還をサポート。
しかし既に周囲は敵だらけで、しかも加藤清正、黒田如水、鍋島直茂など名立たる武将たちが、柳川の地へ迫ってきました。
立花誾千代の伝説
ちなみに柳川城の立地は有明海や、そこへ流れ込む川も近く、攻め手の立場からすると水上の移動が鍵になりました。このとき逸話によれば、誾千代は付近の農民に根回しして、船を敵軍に使わせないように仕向け、また水際に防衛線を築いて上陸を妨害。
鍋島軍が接近すると自ら鉄砲隊を率いて射撃し、これを近寄らせなかったと伝わります。一方で大軍で迫る加藤清正にも備えたうえで、「ここを通れば、タダでは済みませぬぞ」という伝書を送って牽制。
それを知った加藤清正は「みすみす兵を失うこともあるまい」と言って戦闘を避け、結果としてその進軍を遅らせたといいます。ただ彼ほどの武将が本気で怯んだとは考えにくく、清正の性格からすると「その心意気、見事なものよ!」と粋に感じての行動という線も、有り得そうです。
そもそも、ここら辺のエピソードは詳細な史実の裏付けに乏しく、後世に話が盛られて語られている可能性もあります。そうは言っても猛将2人を父に持ち、その性格や城主にも認められた誾千代の人物を考えると「彼女なら、いかにもやりそう」というイメージは湧いてきます。
それらを思い浮かべるだけでも、大いにワクワクさせられるのが、彼女の魅力と言えるでしょう。
女武将から慈愛の女神へ
さて、このように関ケ原の後も攻防をくり広げた立花家ですが、さすがに徳川家康が天下人になってしまうと、いつまでも抗い続ける事はできません。
柳川城を明け渡した上で降伏、領地はすべて没収され、夫婦とも流浪の身になってしまいます。
しかし徳川家康は関ケ原以前から、宗茂のずば抜けた才能を高く評価していました。徳川家に弓を引いた武将としては異例ですが、後に家臣として取り立てる待遇を受けます。
そして数年後には旧領の柳川、約11万石も与えられ、大名として返り咲くのです。まさに奇跡的といえますが、このとき残念ながら誾千代はすでに亡くなっていました。
それから、さらに時が経つと柳川の地に建立された三柱(みはしら)神社に、誾千代は瑞玉霊神(ずいぎょくれいしん)という名で、祀られることになりました。
ちなみに“三柱”とは立花道雪・宗茂・誾千代の3人を指し、家族とともに祭神となっています。
また誾千代・・もとい瑞玉霊神は、慈愛の女神として祀られています。令和の今なお、無病息災や安産のご利益があるとされ、七五三の儀式をする人々なども、三柱神社を訪れています。
いつか大河ドラマの主役に?
ちなみに、この誾千代と宗茂は別居していた時期があるなど、夫婦として不仲だったという説も存在します。
一方で宗茂が流浪の身になったときには、「私の命に代えても、立花宗茂をもういちど世に送り出したまえ」と、神仏に祈り続けたという言い伝えもあり、本当のところはよく分かりません。
ところで2人に縁の深い福岡県の柳川市では現在、『立花宗茂と誾千代』を大河ドラマにするべくPR活動が行われていますが、もし実現すれば特別な絆をもつ夫婦として描かれそうです。
筆者としても2人が主役の大河は、ぜひ見てみたい気持ちになります。いずれにしても数奇な運命と、波乱に満ちた生涯を送った誾千代の存在は、この先もきっと語り継がれて行くに違いありません。