【武器の歴史】なぜナギナタは戦国時代の合戦から姿を消し、女性の武芸となっていったのか?
日本の歴史における合戦の絵をみたとき、それが何時代の戦いなのか?判断材料の1つとしては、兵や武将が扱う武具があります。
もちろん他にも時代ごとの違いは多々ありますが、この記事では武器・・それも鎌倉時代の前後には主力であった、薙刀(ナギナタ)の変遷にフォーカスしてお伝えします。
敵を圧倒する大薙刀
戦国時代、徳川家康に仕えて大活躍した名将の本多忠勝、彼は今でいう千葉県に大多喜(おおたき)城を築きました。その本丸があった跡地には現在、歴史博物館が建てられています(※令和6年現在・改修により休館中)
その展示物のひとつに“無銘伝法城寺(むめいでんほうじょうじ) ”という大ナギナタが所蔵されているのですが、その巨大さは相当な剛腕でなければ扱えないことを、想像させられます。
このナギナタは南北朝時代に作られたと伝わっていますが、源平合戦から室町時代の頃まで、戦いにおいてナギナタは盛んに使われました。
その誕生には諸説ありますが、シンプルに考えると誰かが「刀の先を長い柄に付けたら、強力なのでは」と発想し、試してみたら強かったといった経緯から、広まったのかも知れません。
時代が後半になるにつれ、巨大化が進んだとも言われますが、これを武蔵坊弁慶のような豪傑が振り回せば、どれほどの威力を誇ったか計り知れません。
そして何といってもナギナタはその間合いが長く、それを構えて威圧するだけでも、敵兵はうかつに近寄れません。このように多彩な使い方ができるナギナタは、主力武器として大活躍して行きました。
ナギナタからヤリの時代へ
それから室町時代に入ると、それまで巨大化の傾向があったナギナタの刃渡りは、逆にだんだんと短くなったと伝わります。そして戦国時代が近づくにつれ、槍に取って代わられるようになりました。これは何故なのでしょうか。
それまでは合戦で招集がかかると、各領主が歩兵や騎兵など自身が集めた兵団を従えて駆けつけ、そのユニットごとに集まったような軍勢で戦うのが、主流だったと言われます。
各武将や兵同士の配置もそれぞれに、一定の距離があったと言われ、巨大なナギナタを振り回すこともできます。また「やあやあ、我こそは!」 と名乗り合っての一騎打ちもあったと言われ、その時もナギナタは強力な武器であったことでしょう。
しかし室町以降は全体の組織化が進み、弓兵なら弓兵、騎兵なら騎兵という兵種別に、全体として編成されるケースが増えました。さらに応仁の乱の前後は、大勢の足軽兵が躍進します。
人数も増え密集して戦うようになりましたが、そんな中でナギナタを振り回せば、味方にも当たってしまいますし、 陣形が組みにくくなってしまいます。
さらに槍は、あまり特別な武術を身に着けていなくても、扱いやすい武器です。戦国時代の合戦においても、ナギナタがまったくのゼロになったわけでは無かったかも知れませんが、主力としては明らかに姿を消して行きます。
そして次第に槍こそが武勇の象徴となり“一番槍こそ武士の誉れ”、“彼らこそは賤ケ岳の七本槍”といったような表現も、生まれて行きました。
女性のあつかう武器へ
さて、こうして戦場で使われなくなったナギナタは、どこへ行ったのでしょうか。これも諸説ありますが、職人によって先端が取り外され、刀として生まれ変わったり、合戦の間に留守をあずかる女性に渡されたりしたとも言われます。
女性に必要な戦いと言えば護身用や、館や城にいよいよ攻め込まれたとき、主君や兵士以外を逃がすための、時間稼ぎなどが考えられます。
いずれにしても陣形を組んだり、大人数で戦うことはありませんから、そうした場面においてナギナタは有効な武器です。
リーチの長さに加え、遠心力を利用して振り回すだけでも、かなりの破壊力が生まれます。あまり武術の心得がなくても一定程度、敵の武者に対して渡り合えるのも、女性に採用されたひとつかも知れません。
また江戸時代に入ると男性の武士たちも、そもそも合戦の機会が無くなります。サムライたちは“武士の象徴”として日本刀を持ち歩きますが、それを持てない女性たちには護身用や、武家の娘の教養として、ナギナタが当てがわれたとも言われます。
その後、明治維新を経て近代になると、政府が武道や競技として奨励したことや、あるいは伝統芸能の側面でも、ナギナタは受け継がれて行きました。
現在でも学校の部活動で存在するほか、音楽などリズムに合わせて演武する“リズムなぎなた”といった分野も誕生しています。
もともとは数ある戦いの手段として生まれたナギナタですが、その流れを辿ると各時代の変遷が激しく、ひとつの武器という境界を超え、さまざまな歴史に触れる魅力も感じられます。