織田信長だけではなかった! 家臣に殺害された3人の戦国武将
大河ドラマ「どうする家康」では、今後の回できっと本能寺の変を描くと思われる。実は家臣に殺害されたのは織田信長だけではないので、3人の戦国武将を取り上げることにしよう。
1.赤松義村(?~1521)
明応5年(1496)、赤松義村は播磨などの三ヵ国守護に就任したが、まだ幼かったこともあり、配下の浦上則宗の支えが必要だった。則宗の死後、引き続き義村を支えたのが浦上村宗である。しかし、村宗は義村を脅かす存在となり、ついに2人は雌雄を決することになった。
永正17年(1520)11月、義村は村宗に戦いを挑んだが敗北し、出家して「性因」と名乗った。翌年1月、義村は再び村宗に挙兵したが、敗れて室津(兵庫県たつの市)に幽閉されたのである。
同年9月、村宗は刺客を送り込み、義村を暗殺して我が世の春を謳歌した。しかし、享禄4年(1531)6月、村宗は大物(兵庫県尼崎市)で義村の子・政村(のちの晴政)に討たれたのである。
2.上杉房能(1474~1507)
明応3年(1494)、上杉房能は父・房定の跡を継いで、越後国の守護となった。その房能を支えたのが、守護代の長尾能景である。やがて、2人は政策をめぐって対立し、関係が悪化する。永正3年(1506)9月に能景が亡くなると、子の為景が家督を継承した。
その翌年、突如として為景は定実(房能の養子)を擁立し、房能に挙兵した。急襲された房能は兄の顕定を頼ろうと落ち延びたが、途中で為景の軍勢に追撃されるなどし、永正4年(1507)4月に天水越(新潟県十日町市)で自害したのである。
3.大内義隆(1507~1551)
享禄元年(1528)、大内義隆は父・義興の後継者として、周防・長門の支配を行うことになった。その際、重臣の一人として、義隆を支えたのが陶晴賢である。しかし、武断派の晴賢は文治派の義隆と対立を深め、ついに挙兵を決断した。
天文20年(1551)8月、晴賢が謀反の兵を起こすと、無勢の義隆は山口(山口市)から逃亡した。義隆は長門の大寧寺(山口県長門市)に向かったが、晴賢の兵は容赦なく追撃した。同年9月、義隆は自害して果て、子の義尊も晴賢の兵に殺されたのである。