令和のファンにも知ってもらいたい、新日本プロレス50周年の功労者ストロング小林とは?
新日本プロレス50周年イヤーの幕開けと同時にストロング小林の訃報が飛び込んできた。1970年代後半にはアントニオ猪木、坂口征二に次ぐ三番手として団体を支えたものの、現役を引退してから既に40年近く経つ。そこで、令和のプロレスファンに向け、ストロング小林というレスラーの何が凄かったのかを「3つのポイント」から解説したい。
国際プロレスのエースに君臨
ストロング小林は、新日本プロレスに入団前は国際プロレスのエースであった。TBSで水曜の夜7時に放送されていた時代、1971年に団体の看板であるIWA世界王座を獲得し、25回も防衛したことが最初の偉業である。単純な比較はできないが、IWGPの最多防衛記録がオカダ・カズチカの12回であることを考えると、いかに長く君臨していたかわかるだろう。しかも、防衛戦の相手は実力者揃い。日本人同士でタイトルマッチをしたのもプロレス史上で小林が初めてだ。ボディビル仕込みの肉体から繰り出すパワーが持ち味で、その怪力は2メートルを超えるアンドレ・ザ・ジャイアント(当時のリングネームはモンスター・ロシモフ)をボディスラムで投げたことでも証明されている。21日間だけ王座を明け渡したものの、1974年に退団するまでベルトを保持し続けたこの頃が小林の全盛期だと思われる。しかも、TBSのネット局の多さもあって、当時の知名度はアントニオ猪木を上回っていたと証言する人は多い。
禁断の日本人対決を実現
さて、2つめは国際プロレスを辞め、新日本プロレスでアントニオ猪木と名勝負を残したことである。すでに何度も語られている話だが、試合が実現した1974年当時は、まだ日本人対決がタブー視されていた時代であり、国際の元エースの挑戦はファンに相当なインパクトを与えた。“昭和の巌流島決戦”と呼ばれたこの対決は猪木の勝利で、旗揚げ3年目の新日本プロレスは興行会社として上昇気流に乗り、猪木が持つNWFのベルトの価値はこの初防衛戦で一気に跳ね上がる。さらに試合後「こんな試合をしていたら10年持つ選手生活が1年で終わってしまうかもしれない」という猪木の名言を引き出したという意味でも、小林の役割は大きかった。団体の枠を超えた日本人対決というマッチメイクはこの試合が先駆けで、今月8日に行われたNOAHとの対抗戦もストロング小林が切り拓いた道の延長戦上にあると言える。
WWEでの活躍
そして、3つめはWWE(当時の名称はWWWF)でメインイベンターを経験したという点だ。先に述べた猪木戦の後、渡米した小林は悪役として高く評価されたのである。当時のWWEは小林のようなパワーファイターが好まれる土壌だったことも影響しているが、中邑真輔がWWEで活躍する半世紀近く前に、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで大観衆を熱狂させたことは間違いなく快挙だ。8か月間の遠征中には世界王座にも挑戦しており、これは猪木ですら経験していないことである。一晩で日本のサラリーマンの年収の半分近くの大金を稼いだことは、きっと小林にとって生涯の誇りだったのだろう。現地で購入した高級車のキャデラックを日本でも愛用していたというエピソードもある。ちなみに2度目の猪木戦はこのWWE出場後であり、最初の対戦時と比較して小林の動きや表情が豊かになっていることがわかる。
テレビタレントしての成功
以上の3つが日本のプロレス史に小林が残した偉業だと考えるが、もうひとつ、セカンドキャリアはタレントで成功した事実も付け加えておきたい。1982年に真田広之主演の映画『伊賀忍法帖』出演をきっかけにストロング金剛の芸名を名乗り、バラエティや芝居、歌にまで活動の幅を広げた。つまり、小林は昭和の時代に最もタレント力を発揮したレスラーでもある。顔は恐いが、気は優しくてお茶の間に親しまれた姿は、現在の真壁刀義に近いように思う。ストロング小林が現役を引退したのは1984年。セミリタイア期間を考えると、新日本プロレスでの活躍は実質的にはわずか5年程度であった。しかし、藤波辰爾や長州力など生え抜きのスターが生まれる前は、小林が団体の柱のひとりだったと言ってもいいし、旗揚げ50周年の功労者の一人であることは間違いない。この文章を読んだ若い世代が、アーカイブ映像を探して“怒濤の怪力”を目撃してくれれば、筆者にとっては大きな喜びである。
※文中敬称略