大坂冬の陣後の和睦の席で、木村重成は徳川家康に「血判の血が薄い」と言ったのか
大河ドラマ「どうする家康」では、大坂冬の陣後の和睦にも触れられていた。大坂冬の陣後の和睦の席で起請文が交わされたが、木村重成は徳川家康に「血判の血が薄い」と言ったという。この話が事実なのか、考えてみることにしよう。
大坂の陣で活躍した豊臣方の武将としては、重臣の木村重成が有名である。重成は老獪な徳川家康とは対象的な若武者であり、和睦交渉の席では凛とした態度で一歩も退かなかった。
重成は、重茲の子として誕生した。生年は不詳。文禄4年(1595)に豊臣秀次事件が起こると、重茲は秀次との関係から連座することとなり、豊臣秀吉から切腹を命じられた。同時に、重茲の長男の高成や娘も巻き添えとなったのである。
このとき重茲の妻・右京大夫局(宮内卿局)は、重成とともに近江国にいったん逃れ、のちに許されて豊臣秀頼の乳母となった。そのような経緯もあって、重成は幼少時から秀頼に仕えたといわれている。のちに重成は長門守を称した。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発すると、重成は今福の戦いなどで活躍した。その後、豊臣方と徳川方に和睦交渉が開始されると、重成は豊臣方の使者として重責を担った。当時、重成は十代の青年だったが、堂々とした立ち振る舞いは徳川方からも賞賛された。
和睦交渉は、茶臼山にある家康の本陣で行われた(『大坂冬陣記』)。豊臣方からは木村重成と郡主馬が実質的な交渉役を務め、織田有楽・大野治長の使者が随行した。起請文は牛王宝印の裏に誓紙として書かれ、家康の血判が捺されたという。起請文の誓約内容は、次の5点である。
①籠城した牢人の罪は問わないこと。
②秀頼の知行は、これまでと変わりないこと。
③母・淀殿は、江戸で人質になる必要がないこと。
④大坂城を開城する場合は、望みどおり知行替えを行うこと。
⑤秀頼に対して、徳川方には裏切りの気持ちがないこと。
この起請文には、家康の血判が捺されたという。血判は指を切り、その血を朱肉の代わりにして捺すものである。ところが、起請文を見た重成は、家康の血判の血が薄いと指摘し、再度捺させたというのである。有名なエピソードだ。弱冠十代の重成が大御所の家康に抗議したことは、面目躍如たるところがあった。
しかし、家康の起請文には花押が据えられることが多く、必ずしも血判とは限らない。つまり、判というのは花押、朱印、黒印のいずれかの可能性がある。この時点で優位に立っている家康は、本当に血判を捺したのか疑問が残る。
おそらく、このエピソードは重成を引き立てるものであり、この期に及んで重成が血判の濃淡を問題にしたとは思えない。あまり無理な要求をすれば、和睦そのもののが決裂する可能性があるからだ。したがって、大いに疑問が残るといえよう。
主要参考文献
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)