寺社油事件:キリスト教関係者も困惑・まじめで柔和、優しい人?:宗教トラブルとしての事件の意味とは
■寺社連続油被害事件
日本各地の神社仏閣二条城など、国宝や重要文化財などに、次々と油がまかれ、大きな報道がなされました。ほとんど目立たないようなものもありますが、目立ちますし、修復が難しいものもあります。国宝や重文の修復は、かなり慎重に行われなくてはなりません。油のあとは薬品で消せても、その部分がきれいになってしまうような修復はできません。
これらの犯行がどこまで同じ犯人によるものか、それとも多数の人間による模倣犯なのかは、まだわかりません。
■容疑者に逮捕状
アメリカ在住の日本国籍の男性(52歳)に逮捕状が出されました。
寺社に油をまく行為は、ひどい犯罪行為ですけれども、この容疑者がただの非行少年や、カルト信者であれば、問題は単純だったかもしれません。ところが彼は、社会的地位のある大人で、クリスチャンでした(神社油まき清め男の正体:カルト宗教でもなく異常者でもないからこその社会的問題)。
キリスト教関係者も困惑しています。
一般のキリスト教関係者はもちろん、逮捕状が出た男性の団体関係者さえも、寺社の建物に油をまいて清めるといった行動は、とんでもないと否定しています。
■キリスト教と油
イエス・キリストの、「イエス」は名前です。「キリスト」は、「油を注がれたもの」を意味するヘブル語「メシア」のギリシャ語訳(の日本語読み)で、救世主を意味します。当時の中近東では、王になるときに油を注ぐことが行われました。油を注ぐことは、特別な意味がありました。現在でも象徴的な意味で「油注がれた者」といった表現がされることがあります。
また現在の中近東でも、日常的に良い香りのする油を額や頭に塗るということが行われます。日本人がおしぼりを使うような感覚でしょう。
聖書の中では、しいたげられてきた女性が、イエスの足に香油を塗るシーンがでてきます。また遺体に油をぬろうとするシーンもでてきます。ただし建物や場所を「油で清める」といった箇所はないでしょう。もしあったとしても、国宝に油をつけたりするのはもちろん犯罪です。
■先祖の罪
男は、「日本の先祖が犯した罪を油で清めました」と語っています。先祖の罪といった考えは、聖書の中に出てこなくはありませんが、一般的なキリスト教では語られないメッセージでしょう。
明確に否定する教団もあります。ただそれを語ったからと言って、すぐに異端とかカルトというわけでもないとは思います。プロテスタントは、全体を取り仕切るような組織はなく、それぞれの教会の教義にも行動にも幅があります。
■キリスト教会と神社仏閣
それぞれ違う宗教です。関係者は、みんな同じとは考えないでしょう。時に対立し、議論することもあるでしょう。そして、時には協力し合うこともあります。
たとえば、少年院や刑務所を訪問する「宗教教戒師」のみなさんは、カトリックの神父や、プロテスタントの牧師や、神社の神主や、寺の僧侶です。天理教の方もいます。協力し合って活動をしています。一緒に研修会を開いたり、懇親会を持つこともあります。
東日本大震災のときには、十分な葬儀も行えない中、キリスト教と仏教が協力し、遺族の希望でお経や祈りを捧げるボランティア活動もありました。
■まじめで柔和。優しい人?:事件の意味
人の印象ですから、人によって違うでしょう。ただ、ある人々からそう思われていたのは、事実です。だからこそ、関係者に困惑が広がっています。ある宗教に所蔵する一人の人が、宗教的理由を語って犯罪行為を犯したからと言って、その宗教全体を否定するのは、おかしいでしょう。しかし、反省し考えなくてはならないことはあるでしょう。
彼の信奉者もたくさんいたのですが、今回の逮捕状以前から、彼の考えや行動に警鐘をならす人もいました。宗教で救われる人がたくさんいる一方で、宗教によるトラブルが発生します。しかも宗教トラブルは、介入が難しく、解決が遅れがちなトラブルです。
宗教トラブルは、最初から悪意を持った人が起こすこともありますし、少なくとも最初は熱心な宗教者の場合もあります。被害者が巻き込まれ、加害者になることもあります。
今回の容疑が事実だとするなら、彼のどんな心理が犯行を生んだのか。彼の教えの中に最初から問題が内包されていたのか。犯罪心理学的な考察と、宗教面からの考察が必要です。逮捕、取り調べ、正しい裁判と共に、キリスト教内部において、また社会全体で考えるべき点がある事件だと思います。