【深掘り「鎌倉殿の13人」】御家人間の権力闘争に巻き込まれ、戦いばかりだった和田義盛の後半生
今日の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で注目されるのは、権力闘争に明け暮れた和田義盛だ。御家人間の権力等に巻き込まれた義盛の後半生について、詳しく掘り下げてみよう。
■源頼朝死後の権力闘争
建久10年(1192)1月に源頼朝が亡くなると、頼家があとを継いだ。頼家を支えたのは13人の合議制で、義盛もその1人に加わった。しかし、独裁者だった頼朝の死は、その後の政局に大きな影響を与えた。
同年10月、梶原景時が結城朝光に「謀反の意あり」として、讒言を行った。これを知った御家人は、結束して景時の弾劾状を作成し、これを大江広元に提出した。この一件で景時は失脚。翌年、一族は滅亡に追い込まれた。
義盛は初代の侍所別当だったが、景時によってその地位を奪われていた。景時が討たれることによって、事件の直後に侍所別当に復帰を果たしたのである。
■源頼家の失脚以後
建仁3年(1203)、頼家の後ろ盾だった比企能員ら一族が北条時政らによって滅ぼされた。義盛は北条方に与して、比企一族を滅亡に追い込んだ。これにより、頼家は将軍の座から引きずり降ろされた。
比企一族の滅亡後、義盛は頼家から北条氏を討つよう命じられた。義盛は頼家の命に従わず、そのまま時政に密告した。結局、頼家は伊豆修禅寺に追放され、のちに暗殺されたのである。
元久2年(1205)6月、今度は時政が畠山重忠に謀反の嫌疑を掛け、これを討伐した。義盛は北条一族に従って、畠山一族の討伐に貢献した。とはいえ、これで騒動は収まらなかった。
その直後、時政の妻・牧の方が娘婿の平賀朝雅を新将軍に擁立しようとし、これを北条政子・義時姉弟に阻止された。時政と牧の方は鎌倉から追放され、義時は権力を掌中に収めたのである。
■まとめ
承元3年(1209)、義盛は上総国司(上総介)を希望し、源実朝に打診した。しかし、この話は政子によって握り潰されてしまった。以降、義盛は北条一族に良からぬ感情を抱いたのは疑いない。そして、和田合戦が勃発するが、それは改めて取り上げることにしよう。