瀬名の最期は2つの説があった。いったい、どちらが正しいのだろうか
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、とうとう瀬名が処分された。瀬名の最期はどのようなものだったのか、考えてみることにしよう。
『改正三河後風土記』によると、瀬名と松平信康の陰謀(武田勝頼との内通)が露見し、徳川家康は対応を迫られることになった。というのも、家康は信長に使者として酒井忠次を送り込んだところ、「瀬名と信康を処分せよ」と迫られたからだ。
信長は家康の主人であるので、泣く泣くでも従わざるを得なかった。しかし、今ではこの『改正三河後風土記』などの見解に基づく説は否定され、徳川家中の分裂を防ぐため、家康自身の強い決意によって、あえて2人を処分することになったとされている。
天正7年(1579)8月7日、家康は岡崎を訪問すると、城の警固を厳しくするよう命じた。その後、信康を大浜から堀江城に移したのである。さらに8月10日になると、信康は二俣城に移され、家康配下の大久保忠世に預けられた。いわば、幽閉ということになろう。
8月29日、家康は野中重政に瀬名を討つよう命じ、白岩、奥山、中根の3人の武将を付けた。野中重政は家康の配下の者ではあるが、生没年はもちろんのこと、その生涯も詳しくわからない謎の人物である。その点はやや不審である。
瀬名が討たれたのは小藪村(静岡県浜松市)であるが、どのような方法で殺害されたのだろうか。重政らは瀬名に潔く自害するよう強く迫ったが、これは即座に拒否された。そこで、重政らは瀬名の首を刎ねて、殺したのである。
検使役だった石川義房は、信長のいる安土城(滋賀県近江八幡市)に瀬名の首を持参した。いうなれば、首実検のようなものであろう。その後、瀬名の遺骸は持ち帰られると、浜松の西来寺に葬られたという。
瀬名の遺骸は、高松山西来禅院(静岡県浜松市)に埋葬された。法名は、西来院殿政岩秀貞大姉である。なお、後世に成った『石川正西聞見記』という史料によると、瀬名は移送される途中で自害して果てたという。どちらが正しいのかは、現時点では何とも言えない。