【河内長野市】かつては相撲が盛んだった!貴重な江戸時代の相撲番付と絵馬が残る美加の台の赤坂上之山神社
一昨日から、毎年大阪で行われる大相撲春場所が始まりました。大阪府の各所には相撲部屋の宿舎が設けられ、南河内地域では松原市と羽曳野市にあるようです。
ここまで書くと、河内長野は相撲とは無縁のように思いますが、実はそうではありません。少なくとも江戸時代から明治時代にかけては、この河内長野を含めたこの地域でも相撲(大坂相撲)が盛んだったそうです。
その証拠として美加の台にある赤坂上之山神社(あかさかかみのやまじんじゃ)には、相撲絵馬が奉納されています。
というわけで、赤坂上之山神社に行きました。現在は禅宗寺院となった興禅寺の境内と隣接していて、どちらも行基が767(神護景雲<じんごういうん>元)年に創建したと伝わっています。
興禅寺の当時の名称は古稱陀洛山(こしょうだらくさん) 神宮寺でした。赤坂上之山神社の名前はもと正八幡宮で、寺の鎮守および河内国錦部郡の総社として神社が創建されました。
美加の台第3公園から境内に入ります。こちらの鳥居は一の鳥居で、ちょうど徳川吉宗が八代将軍になった年、1716(享保元)年に建てられたものです。
実は拝殿内に神社歴史年表が張り出されていて、いつ頃のものかすぐにわかります。これはありがたいですね。それによれば、一の鳥居が神社に現存するもっとも古いもののようです。
こちらも江戸時代の1816(文化13)年に建立された手水鉢です。
手水鉢の横に階段があるので上っていきます。興禅寺も含め美加の台が造成されるはるか前から存在しいたわけで、ここだけ異界の地という雰囲気がします。今は住宅地の中にあるように見えますが、かつては山の中腹にあったと考えられます。
あくまで想像ですが、南側の石仏、加賀田あるいは北側の旧鬼住村(神ガ丘)に住んでいた人が山を登って参拝したのでしょう。
階段を上っていくと鳥居(二の鳥居)が見えて境内に到着します。二の鳥居は1832(天保3)年に建立されたもの。画像からは誰もいないように見えますが、実際には複数の人がこの時間、参拝に来られていました。
神社の扁額(へんがく)です。江戸時代までは神仏混淆(しんぶつこんこう:神道と仏教が同じ敷地内で共存していた)の寺院でしたが、明治の神仏分離令で切り離されてから、赤坂上之山神社となりました。
とはいえ、いまでも寺の境内から神社に入る必要があり、神仏混淆時代の名残があるということで、全国的にも貴重なのだそうです。
もともとは正八幡宮という名前だったことから、主祭神が仲哀天皇、神功皇后、応神天皇(八幡神)というのはうなづけますね。
この3柱に加えて、1908(明治41)年に天見村大字清水に鎮座していた菅原神社を合祀しているので、菅原道真も主祭神に加わります。
狛犬は1837(天保8)年に建立されたとありました。
拝殿に来ました。拝殿の先に本殿が見えます。現在の拝殿は1975(昭和50)年の建立です。
また拝殿の正面に見える扁額「八幡宮」は、1813(文化10)年に奉納され、その横にある「赤坂神社」の扁額は1880(明治13)年奉納とあります。
こちらが赤坂上之山神社の歴史年表です。前にも触れましたが、ここまで詳しく歴史年表が乗っている神社仏閣はそう多くはないので、たいへん重宝しました。
さてこの中には、今回の本題である相撲絵馬と番付奉納による記録も記載されています。
こちらの左側にあるのが相撲図絵馬です。1835(天保6)年に奉納されたもので、資料によれば、2014(平成26)年に天野山文化遺産研究所による調査と修復作業が行われたとのこと。
わかったことは、この相撲図絵馬は天保六年乙未(きのとひつじ)八月吉日奉納されたもので、絵師の名前は梅月という人です。奉納した人は三日市に住んでいた中屋太七という人で、絵馬の大きさは縦77センチメートル、横58センチメートルあるとこと。
江戸時代の年号が記された相撲図絵馬は全国的にも非常に価値が高いそうです。
これは河津(かわづ)掛けという技を決める場面です。これは相撲の決まり手ですが、珍しい決まり手で、最近では2022年11月場所5日目に関脇の豊昇龍(ほうしょうりゅう)が西前頭3枚目の翠富士(みどりふじ)にこの技を使って勝利しました。
河津掛けの由来はもともとは足の形からカエル由来で「蛙掛け」(かわずがけ)だったものが、「蛙」の字が「河津」にかわったそうで、鎌倉時代の仇討ちを題材にした曽我物語が関係しているとの説がありますが、定かではありません。
余談ですが柔道の投げ技にも同じ名前の技があり、さらに河津掛けをもとに、ジャイアント馬場が開発した「河津落とし」というプロレスの技もあります。
次にこちらが相撲番付です。木の板に書かれていた板番付が、1841(天保12)年に奉納されたとあります。
相撲の番付は普通東西にありますが、こちらは東方だけが乗っていて、天保十二年辛丑(かのとうし)閏正月中旬と書いてあるそうです。
押尾川巻右衛門という人が勧進元(かんじんもと:相撲や芝居などの興行元、主催者)で、興行人が石割幸助という人なのだそうです。ちなみに額の大きさは縦62センチメートルで、横208.6センチメートルあるとのこと。
拡大してみました。よく見ると字が書いてあるのが見えます。ただこれは撮影した画像だから見えたともいえ、肉眼ではほとんど見えませんでした。
こちらは、肉眼でもはっきり見えた相撲番付です。左上に「明治九年十月吉日」の文字が見えますね。
東西の番付が併記されてて、取締(相撲運営の中心人物)が、染川吉蔵と鶴渡八十吉で、大きさが縦85.5センチメートル、横185.5センチメートルあります。
ほかにも奉納されている絵馬があります。
さらに拝殿内に掲載されていたこちらの資料によれば、応神天皇の御遺髪が埋められたところに社を建て祀ったという言い伝えがあるとのこと。
神社の山麓には大塚という古墳があり、そこには太刀が見つかったそうです。
拝殿から本殿を見ました。左下に少しだけ石碑が見え、そこには拝殿の資料にあった伝承「応神天皇御遺髪埋納伝承地」と書かれていました。
御祭神が紹介されています。現在の本殿は1815(文化12)年に建立され、1899(明治32)年に桧皮屋根を銅板に改修、1976(昭和51)年に修復が行われています。
こちらにも石碑があります。これは2017(平成29)年に行われた御鎮座1250年大祭を再興した記念の石碑です。これは6年前のことなので、記憶に新しい人も多いかもしれません。式典の行事が書かれていた資料があったのでこちらに紹介しましょう。
こちらは境内社の「天王稲荷大明神」です。
拝殿の外側には今となっては貴重なものを見つけました。
これは美加の台を開発造成した当時の全景写真です。山の宅地開発に携わった人も山の中に赤坂上之山神社と興禅寺がありますから、影響がないように相当気を使ったでしょうね。
また本殿前の左右に「オガダマノキ」が植えられているとのこと。
オガダマノキはこちらでしょうか?訪問時が少し早かったのでまだ花は咲いていませんが、三月下旬になればクリーム色の花が開花するそうです。
ということで、赤坂上之山神社と奉納されている相撲絵馬と相撲番付を紹介しました。今では相撲とはまったく無縁に見えますが、実はかつて相撲と深いかかわりが絵馬と番付が奉納されていることで明らかになったそうです。
大相撲の春場所が開催されているエディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)は、難波にあるので河内長野からは乗り換えなしで行けます。
また今年は無いようですが、来年以降に河内長野などの南河内で相撲の巡業が行われるかもしれません。もしそうなればいいのにと、参拝しておきました。
赤坂上之山神社
住所:大阪府河内長野市美加の台1丁目25-2
アクセス:南海美加の台駅からバス 上之山神社前バス停より徒歩10分
※記事へのご感想等ございましたら、「奥河内から情報発信」ページのプロフィール欄にSNSへのリンクがありますので、そちらからお願いします。