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石田三成に「打倒家康」の挙兵を決断させた、有能な家臣団とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、ついに石田三成が「打倒家康」の挙兵を決断した。その三成を支えたのが有能な家臣団だった。その全貌を紹介することにしよう。

 三成は佐吉と称していた少年期に羽柴秀吉に見出され、小姓として仕官した。その先祖は、土豪だったと推測される。秀吉が諸大名と戦いを繰り広げるなかで、三成は側近として重用された。

 天正13年(1585)に秀吉が関白に就任すると、従五位下・治部少輔に叙された。その後は検地奉行などを務め、辣腕を振るった。のちに五奉行になったのは、行政手腕が優れていたからだろう。

 天正19年(1591)、三成は蔵入地(豊臣家直轄領)代官として佐和山城(滋賀県彦根市)主となった。文禄4年(1595)、三成は江北に19万4千石を与えられ、正式に佐和山城主となった。

 とはいえ、三成はもともと土豪にすぎなかったので、譜代の家臣といえる者はいなかったと考えるべきだろう。むろん、三成は対策を施していた。

 三成は出世とともに、有能な家臣団を編制した。大和国出身の島清興(左近)はその代表的な存在で、筒井順慶、豊臣秀長などに仕えて活躍した高名な武将だった。なお、かつては「左近」と称されていたが、今は「清興」と呼ぶのが正しいとされている。

 清興が三成に仕官した経緯は、有名なエピソードがある(『常山紀談』)。清興は、三成から家臣として招かれた。その際、三成は自身の領する近江国水口(滋賀県甲賀市)の4万石のうち、2万石を清興に与えるという破格の条件を示したと伝わる。

 自身の所領の半分を与えてでも清興を迎えたいという、思い切った判断だった。ただし、三成が水口に所領を与えられた根拠はなく、清興が仕官した時期は三成が佐和山城主になってからのことなので、この逸話は誤りである。

 多くの人々は名高い清興が三成に仕えたことに驚き、「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」と詠まれたほどである。このように三成には、高禄の好条件を提示して家臣を迎えようとしたエピソードが多い。

 渡辺勘兵衛(新之丞)は猛将として知られ、有名な大名から高禄で召し抱えると誘いを受けても断ったが、三成には仕えたという。このエピソードも、疑わしいものの一つである。

 三成は、大名が改易になって主人を失った家臣を積極的に受け入れた。文禄4年(1595)、関白の豊臣秀次が秀吉から切腹を命じられ、多くの家臣が職を失った。その際、三成は秀次の家臣だった「若江八人衆(七人衆とも)」の舞兵庫、大場土佐ら、大半を家臣として迎え入れた。

 慶長3年(1598)、会津の蒲生秀行は秀吉から家中の混乱を咎められ、宇都宮(栃木県宇都宮市)に減封のうえ移された。このとき路頭に迷った家臣がいたので、三成は「蒲生十八将」の蒲生頼郷、蒲生郷舎らを召し抱えたのである。

 つまり、三成は主人を失った有能な家臣を迎え入れ、家臣団を充実させたのである。こうした有能な家臣団がいたので、三成は「打倒家康」という思い切った判断をしたと考えられる。

主要参考文献

渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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