市川猿之助がつくる人間味あふれる大悪党 PARCO劇場『藪原検校』の軽やかさと怖さ
怖い! 怖すぎて気持ちが悪くなりそうになった。だが、幕が閉まってからの後味は不思議と悪くなかった。
『藪原検校』は「西武劇場(※注)オープニング記念・井上ひさしシリーズ」として1973年に初演された作品である。その後、2007年には演出・蜷川幸雄×主演:古田新太(シアターコクーン)、2012・15年には演出・栗山民也×主演・野村萬斎(世田谷パブリックシアター)と再演が重ねられてきた。
それがこの度、新生PARCO劇場のオープニングシリーズの中で、また新たな形で蘇った。井上ひさしによる普遍的な問題提起を若き演出家の杉原邦生がうまく現代に結びつけ、主演の市川猿之助をはじめ達者な俳優陣が舞台に息づく。軽妙な痛快さを持ちながらも、ずっしりとした見応えのある舞台となっている。
時は江戸時代中期、カネが物を言う田沼意次の時代が終わり、老中・松平定信が緩み切った世の中を締め上げようとしていた頃の話だ。東北・塩釜の漁村で生まれた盲目の座頭・杉の市は、悪虐の限りを尽くして江戸の「藪原検校」にまで上り詰めるのだが…。
怖い話だとは言ったが、じつはこの作品において杉の市自身はそれほど怖い存在ではない気がした。むしろ観終わった今はアッパレ杉の市と、その波乱の生涯をねぎらってあげたい気分である。
市川猿之助が作り上げた杉の市は、極悪非道ながらもどこか愛嬌や切なさも感じさせる、人間味あふれる大悪党だ。歌舞伎は魅力的な悪党の宝庫だが、その歌舞伎で培った経験値もこの役には効いている気がした。根性のねじ曲がった役だが、ぬぐい切れない品の良さもこの作品の中では救いだ。また、「早物語」の場面は歌舞伎役者の本領発揮で、義太夫節も能の謡も自在に語り分けて聞かせてみせる。
三宅健が演じる塙保己市。盲目の国学者「塙保己一」とは「一」の字が違うこの人物は、杉の市とは対照的な立派な学者のようでいて、実は同じ穴のムジナであることを自覚した人物として描かれる。その涼やかな風情がかえって恐ろしさを増幅させるようだ。三宅はこの他にもまったくタイプの異なる6役を演じ分けてみせる。
杉の市の悪党人生のさらに裏側のような存在として、最後まで絡みついてくるお市には松雪泰子。女の業の哀しさを艶っぽく見せる。そして、軽妙な語り口で進行役を務めるのが、盲大夫の川平慈英だ。
(※以下、結末に関して触れていますのでご注意ください)
ファンキーでポップな舞台セットとまるでエレキギターが奏でているかのような音楽(実際はギター演奏だが)が醸し出す前衛的な空気は、このお話が現代にも通じるものであることを暗示しているようだ。
そして、盲大夫の明るくテンポの良い語りで物語は軽やかに進むが、要所要所で恐怖を浴びせかけてくる。その振れ幅にくらくらとさせられる。
その第一は「当道座」という盲人たちの階級制度の恐ろしさである。そこには何と73段階もの階級があるのだ。上の階級に登るたびに官金を当道座に納めねばならず、最上位の検校にまで登り詰めるためには719両が必要であったという。1両=6万円で換算すると、4314万円もの大金だ。
社会的に虐げられていた人々が、ここまで緻密な制度でさらに自分の「下」を作り出そうとしていたことが恐ろしい。だが、杉の市は上を目指すべく、迷わず金の亡者となるのである。
第二は言うまでもなく杉の市が刑に処される場面である。塙保己市が松平定信(みのすけ)に提案した世にも恐ろしい処刑法は、グロテスクを通り越して笑ってしまった。恐怖と笑いは紙一重、隣り合わせなものなのかも知れない。
そして第三、この後にもうひとつ寒気を覚えた一瞬がある。それは処刑を見終えた人々が去っていく姿である。たとえ視力に問題がなくとも、世の中が見えなくなってしまう人はたくさんいるということか。これこそが作者の井上が鳴らしたかった警鐘ではないだろうか。
杉の市はほんとうは誰もが心に抱く欲望にあまりに素直に、自由奔放に生き過ぎてしまったがために「罰」を受けたのである。みじめな境遇とままならない世間に果敢に立ち向かっていった杉の市の生き様はむしろアッパレだし、何やら元気をもらえる気さえしてくる。これが、今の世の中に風穴を開けるべく杉原邦生が描いた杉の市像なのだ。
だが、これも一つの作品解釈であり、時代によって演出家によって、また違う描き方もあるのだろう。これこそが井上ひさし作品の懐の深さであり、恐ろしさかもしれない。
※西武劇場は旧PARCO劇場のオープン当時の名称。