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上杉謙信がライバルの武田信玄に塩を送ったという話は、史実なのだろうか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上杉謙信。(提供:アフロ)

 普段はライバルとしてしのぎを削っていても、ときに相手が困っていたら手を差し伸べることがある。武田信玄が塩の輸入ができずに困っていると、ライバルの上杉謙信が塩を送ったという逸話があるが、それは史実とみなしてよいのだろうか。

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 上杉謙信は川中島の戦いで、武田信玄と何度も死闘を繰り広げたライバルである。この2人は不倶戴天の敵だったが、信玄が塩が輸入できずに困っているとき、謙信が援助したという逸話が残っている。

 信玄は謙信と抗争を繰り広げていたが、ほかにも関東、東海地域の今川氏、北条氏といった大名と同盟と離反を繰り返していた。信玄は戦いに明け暮れており、決して油断できなかったのだ。

 永禄3年(1560)の桶狭間合戦で、今川義元が織田信長に討たれると、義元の子の氏真が今川家の家督を継いだ。しかし、氏真には義元ほどの器量がなく、やがて今川家は衰退し、存亡の危機に立たされたのである。

 かねて武田、北条、今川の三者は、三国同盟を結び良好な関係を築いていた。ところが永禄10年(1567)、信玄は同盟を破棄すると、今川氏の衰退をチャンスとばかりに今川領国の駿河国へ侵攻したのである。

 氏真は信玄のことを信じていたので、道義にもとる裏切りに怒りを禁じ得なかった。氏真は北条氏と結託し、信玄に経済制裁を行うことにした。これが、塩を甲斐へ送ることを禁じた「塩留め」である。

 甲斐は四方を陸で囲まれて海がなく、塩が輸入できなくなると人々の生活に困難が生じた。塩は健康な生活を送るうえで欠かすことができず、調理をする際の味付けにも必要だった。甲斐国内では塩が著しく不足したので、領民が苦しんだと伝わっている。

 ここで、信玄のライバルだった謙信は、手を差し伸べたのである。謙信は「塩留め」を実行した氏真らを「卑怯だ」と非難し、甲斐に通常の価格で塩を送ったのである。

 信玄や甲斐の領民は、謙信に大変感謝したと伝わっている。信玄は謙信に感謝の意を込めて、福岡一文字の太刀「弘口」を贈ったという。この太刀は、のちに「塩留めの太刀」と名付けられたといわれている。

 謙信が甲斐に塩を送った話は感動的ではあるが、信頼できる史料に書かれたものではない。氏真らが「塩留め」をしたという裏付け史料もない。一連の話は、謙信が名君だったことを後世に伝えようとした創作にすぎない可能性が高い。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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