「どうする家康」に登場している服部半蔵の名字「服部」は、なぜ「はっとり」と読むのか
大河ドラマ「どうする家康」に登場している山田孝之演じる服部半蔵。瀬名の浜松からの奪還には失敗したが、上ノ郷城攻めで鵜殿長照の2人の息子を捕らえて、無事瀬名との人質交換を果たした。ドラマでは忍者の頭領でありながら忍者を否定し、自らは武士として生きようとする姿で描かれている。
この服部半蔵、ほとんどの人がなんの疑いもなく「はっとり・はんぞう」と読んでいるが、本来「服部」という漢字からは「はっとり」という読み方は連想できない。なぜ「服部」と書いて「はっとり」と読むのだろうか。
「服部」とは何か
「服部」という名字のルーツは古く、そもそもは古代のヤマト王権で服を織ることを担当していた「服織部」(はたおりべ)に因んでいる。
この服織部が、表記は中央の「織」の漢字が落ちて「服部」となる一方、読み方は「はたおりべ」→「はっとりべ」→「はっとり」と変化したため、漢字と読み方が対応しなくなったものだ。
因みに、古代にはより高価な錦を織る部署もあった。これを「錦織部」といい、「にしこりべ」と読んだ。この錦織部は末尾の「部」が欠落して「錦織」(にしこり)と変化した。「錦織」の場合は漢字と読みがある程度対応していることから、「錦(にしき)」「織(おり)」という漢字本来の読みに引きずられて「にしきおり」と読み方が変わったものも多い。
服部一族のルーツ
服織部に因む服部氏は各地におり、その中には居住地が「服部」という地名になった所も多い。
最も有名なのが伊賀国阿拝郡服部郷(現在の三重県伊賀市)で、ここに住んだ武士は地名をとって服部氏と名乗った。『平家物語』に平知盛の乳兄弟として登場する平家長を祖とすると伝えるが、他の説もあり、はっきりしない。
平安末期に源頼朝に属して、鎌倉時代には幕府の御家人となっている。以後、庶子家を分出して伊賀国阿拝郡・山田郡に勢力を広げ、室町時代には有力国人に成長した。
服部半蔵のルーツと子孫
三河の服部氏も伊賀の出で、代々「半蔵」と名乗った。もとは伊賀国千賀地谷(現在の伊賀市)に住んでおり、初代は服部半蔵保長(正種)といい、伊賀から三河に転じて松平氏に仕えたらしい。ドラマに出てくる半蔵正成は2代目で、武士として徳川家康に仕え遠江国で8000石を知行した。
江戸時代、一族は伊賀衆とよばれる旗本となり、多くの分家がある。
東京の地下鉄半蔵門線の名前の由来ともなっている江戸城の半蔵門は、この門の警固を担当した服部正成・正就父子に因んでいる。