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平清盛にさんざん利用され、悲惨な目に遭った高倉天皇とは、どういう人物だったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛。(提供:アフロ)

 養和元年(1181)1月14日は、高倉天皇が亡くなった日である。今から843年前のことである。高倉天皇の生きた時代は、ちょうど平家の全盛期だった。平清盛は権勢を振るうべく、高倉天皇を利用したので、その経緯を取り上げることにしよう。

 応保元年(1161)、高倉天皇は後白河天皇と建春門院滋子(平時信の娘)の皇子として誕生した。母の滋子の姉は、時子(平清盛の妻)である。

 仁安元年(1166)、高倉天皇は皇太子になると、その2年後には即位した。即位したのは、同年における六条天皇の死に伴うものだった。当時、後白河天皇が上皇となり、院政を行っていた。高倉天皇は幼かったので、その庇護下にあったといえよう。

 高倉天皇が即位した時点において、大きな権勢を誇っていたのが平清盛である。平治元年(1160)に勃発した平治の乱において、清盛はライバルの源義朝らに勝利し、その地位を確固たるものにした。

 清盛は平家一門を重要な官職に就け、わが世の春を謳歌した。平時忠は「此(平家)一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と豪語したほどである(『平家物語』)。

 むろん、高倉天皇も平家の影響から逃れることができなかった。承安2年(1172)、高倉天皇は徳子(清盛の娘)を中宮に迎えることになった。

 清盛は娘を中宮に送り込むことで、高倉天皇との関係を強めようとした。それだけでなく、2人の間に後継者たる男子が生まれた場合、清盛は外祖父として権勢を振るおうと考えたことであろう。この結婚は、清盛の策略でもあった。

 清盛の期待に応えるごとく、治承2年(1178)11月に2人の間に皇子が誕生した。のちの安徳天皇である。その翌月、安徳天皇は早々に皇太子になったのである。すべては、清盛の計画どおりに進んだといえよう。

 やがて、後白河法皇と清盛との関係が悪化し、高倉天皇は心を痛めた。治承3年(1179)11月、清盛は軍勢を率いて京都市中を制圧すると、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した。一種の軍事クーデターである。

 その結果、翌年2月に高倉天皇はむりやり安徳天皇に譲位させられ、院政を行うことになったのである。しかし、それはあくまで形式的なものであり、主導権は清盛が握っていた。そのような心労が重なったのか、高倉天皇は翌年に亡くなった。享年21。あまりに早い死だった。

 清盛の没後、平家は坂道を転がり落ちるように衰退した。そして、源頼朝との戦いに敗れ、平家一門は文治元年(1185)に滅亡したのである。その際、高倉天皇の子・安徳天皇も壇ノ浦に入水し、短い生涯を終えたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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