石田三成の名前の読み方は、「みつなり」か? それとも「かづしげ」か?
今回の「どうする家康」では、ついに石田三成が登場した。三成の名前は「みつなり」と読むのが普通であるが、実は「かづしげ」と読む説もある。いったい、どちらが正しいのだろうか。
近年、新しい史料の発見により、人名の読み方が変わることが珍しくない。武田氏配下の穴山信君は、かつて名前が「のぶきみ」と読まれていたが、今は「のぶただ」と読まれている。むろん、正しいのか否か判断がつかないものもあるが、誠に興味深い。
ところで、古来、石田三成の名前は、「みつなり」ではなく「かづしげ」と読むべきだという説があるので、紹介することにしよう。
『甲子夜話』と『善庵随筆』という後世に成った書物には、次のように書かれている。
三成の名を世の人は「みつなり」と読むが、一身田専修寺(三重県津市)は三成と懇ろだったので、その自筆の仮名書状が数通残っていた。
それらは、すべて「かづしげ」と書いてあり、三を「かづ」と読み、成を「しげ」と読むが、今は知る人がいない。
藤堂家の文書にも、「かづしげ」と書いており、世の人は「みつなり」と読むのを間違いだと知るべきである。
しかし、一身田専修寺には、三成の仮名書状は一通も残っていない。藤堂家も同じである。つまり、『甲子夜話』と『善庵随筆』に書かれたことには、大いに疑問が残る。
たしかに、三を「かづ」と読み、成を「しげ」と読むことはあるのだが、本当に「かづしげ」と読むのだろうか。
実は、天正11年(1583)1月23日付の石田三成書状には、「石田佐吉三也」との署名がある(「広田文書」)。「三也」は、明らかに「みつなり」と読むはずである。也は、人名でも「しげ」と読むことはない。
そうなると、「かづなり」と読む可能性もあるが、やはり「みつなり」と読むのが妥当である。
「三也」から「三成」へ改名した時期は、天正11年(1583)4月の賤ヶ岳の戦いの前後ではないかと指摘されている。改名した理由は、必ずしも明らかにされていないのが現状だ。
三成の名は「かづしげ」と読む説があるものの、史実としては疑わしいことが判明した。特段、積極的に「かづしげ」と読む必要はないようだ。
主要参考文献
渡辺世祐編刊『稿本石田三成 補再版』(1928年)