ペレスと喧嘩しながら残留を決断。主将を務めるS・ラモスが示す覚悟。
レアル・マドリーのようなビッグクラブでは、移籍市場が開く度に誰かしらの退団がささやかれる。
2018-19シーズン終了後、その的になったのがセルヒオ・ラモスだ。彼はこの5月にレネ・ラモス代理人、顧問弁護士のフリオ・センを伴ってフロレンティーノ・ペレス会長と話し合いの場を設けたとされている。4人で会合したのち、最終的にはS・ラモスとペレス会長が直接話し合ったという。
その裏には、中国クラブの存在があった。2021年夏まで契約を残しているS・ラモスだが、中国の「爆買い」の手が彼に忍び寄っていた。現在の年俸1200万ユーロ(約14億円)に対して、中国から年俸2500万ユーロ(約30億円)で3年契約オファーが届いたといわれている。
破格のオファーを受けたS・ラモス側から契約解除の申し出があった。しかしながら、ペレス会長は移籍金ゼロでS・ラモスを放出するというプランを拒絶している。
■2015年の移籍騒動
今回の一件で思い起こされるのは、移籍の可能性が盛んに報じられていた2015年夏である。
それはマドリーがデシマ(クラブ史上10度目のチャンピオンズリーグ優勝)を達成した翌シーズン終了後だった。マンチェスター・ユナイテッドがS・ラモス獲得に動いた。その時点で、S・ラモスはマドリーに在籍した10年間で445試合に出場して55得点を記録して、リーガエスパニョーラ(優勝3回)、コパ・デル・レイ(2回)、UEFAスーパーカップ(2回)、クラブ・ワールドカップ、チャンピオンズリーグと合計9タイトルを獲得していた。
なにより、デシマを獲得したアトレティコ・マドリーとの決勝でアディショナルタイムの93分に起死回生の同点弾を沈めた功績がある。その後、「ノベンタ・イ・ラモス(90分のラモス)」と称され、レアル・マドリーの不屈の精神を象徴する標語が生み出された。あの時、あの場所にいたのは、クリスティアーノ・ロナウドではなく、ガレス・ベイルではなく、S・ラモスだったのだ。
だが、当時、S・ラモスがマドリーで受け取っていた年俸は600万ユーロ(約7億円)程度であった。そこでユナイテッドが年俸1200万ユーロ(約14億円)をS・ラモスに用意した。S・ラモスの心は揺れた。一方で、マドリーはイケル・カシージャスの退団が決まっていた。次期キャプテンの有力候補だったS・ラモスまで移籍に傾けば、打撃は大きかったはずだ。
ペレス会長はS・ラモスを売却不可能だとし、2020年までの契約延長で彼と合意に至った。この契約でS・ラモスの年俸は900万ユーロ(約11億円)に引き上げられ、マドリディスモの象徴の面目は保たれた。
■会長との関係性
18-19シーズン、マドリーは主要タイトルをすべて逃して無冠に終わった。
ショックが大きかったのはチャンピオンズリーグの敗退だ。決勝トーナメント1回戦でアヤックスに敗れ、マドリーはベスト16で散った。累積警告でセカンドレグを欠場したS・ラモスは試合後にペレス会長から非難を受け、両者は口論に及んだ。
「あれは僕の大きなミスだった。その責任を200%受け入れる」とS・ラモスはのちに振り返っている。ファーストレグ(2-1)で勝利を確信したS・ラモスはイエローカードをもらい、セカンドレグを欠場することになった。ベスト8以降を見据えた上での判断だった。だがS・ラモスを欠いたマドリーはセカンドレグで守備が崩壊。4失点を喫して敗れ、アヤックスが逆転でラウンド突破を決めた。
繰り返しになるが、2014年に悲願のデシマを達成した、その意味は少なくなかった。あの同点ゴールを決めたS・ラモスはペレス会長を救った存在だとも言える。この2人の関係は親子のようだ。親が叱咤し、息子が奮起する。2015年夏のS・ラモスのユナイテッド移籍騒動後、2015-16シーズン、16-17シーズン、17-18シーズンとマドリーはチャンピオンズリーグで3連覇を成し遂げている。
ペレス会長は今回の移籍騒動を経て「私に何を語れと言うんだ。中国のクラブと連絡を取った。移籍は不可能だった。我々のカピタン(主将)を無料で放出するわけにはいかない」と語った。
S・ラモスはマドリーで15シーズン目を迎える。マルセロ(14シーズン目)、カリム・ベンゼマ(11シーズン目)を凌いで、最長の在籍年数だ。
長年マドリーでプレーし続ける、そしてキャプテンを務める重責は計り知れない。ペレス会長と喧嘩をしながらも、残留を決めたS・ラモスの覚悟が、クラブの再建への一歩目になる。