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【光る君へ】花山天皇は性に奔放だった。そのエピソードを紹介する

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、花山天皇の奇行が注目されている。藤原為時(紫式部の父)は、花山天皇に学問の講義を行うが、一向に聞いてもらえない。

 それどころか、花山天皇は堂々と性にまつわる話を披露し、為時を呆れさせる始末である。実は、花山天皇には性にまつわるエピソードが多いので、いくつかを紹介することにしよう。

 安和元年(968)、花山天皇は冷泉天皇の第一皇子として誕生した。母は、藤原伊尹の娘の懐子である。父の冷泉天皇は、奇行が多かったことで知られている。

 『元亨四年具注暦井裏書』には、冷泉天皇が足を怪我したのに治療もせず、一日中蹴鞠を続けたという話を載せる。また、『清慎公記』によると、病で伏しているにもかかわらず、大声で歌を歌っていたという。

 その一方で、冷泉天皇は容姿端麗で、気の病を持っているように見えなかったとも伝わっている(『栄花物語』)。

 そのような父の気質を継いだのか、花山天皇も奇行が目立ち、特に性に関しては奔放だったという。永観2年(984)、花山天皇は円融天皇から譲位されて、即位式に臨むことになった。

 しかし、花山天皇は大極殿の高御座のうえで、女官と交わったというのである(『江談抄』)。高御座は新天皇が三種の神器を携えて入り、一種の霊性を帯びて天皇になるという神聖な場所だった。前代未聞の出来事だったのは、疑いない事実である。

 このような事件があったにもかかわらず、藤原実資の日記『小右記』にはこの一件を書き留めていない。説話集『江談抄』の著者は大江匡房で、その成立は12世紀初頭である。花山天皇が即位してから、約120年を経過しているのだから、この話が事実なのかは、さらに検討を要しよう。

 花山天皇は在位からわずか1年10ヵ月あまりで、退位を迫られた。藤原義懐(伊尹の子)と藤原兼家の勢力争いが原因で、花山寺で出家して入覚と号したのである(花山法皇:ただし、以下「花山天皇」で統一)。

 しかし、花山天皇は出家したとはいえ、まだ若く性のエネルギーを持て余していた。彼の子は4人いたというが、いずれも出家後に誕生したという。しかも花山天皇が通じていたのは、娘とその母だったというから驚きである(『栄花物語』)。つまり、同時進行で母娘との関係が続いたことになる。

 しかも、その母娘の女主人は、花山天皇の叔母だった。それだけでも驚くが、2人は男女の関係にあったというのだから、もはや驚倒するしかない。その挙句、花山天皇はその叔母を弟の為尊親王に宛がったという。このように花山天皇は、かなりの女性好きだった。

 ところで、一連の話を記載する『栄花物語』は、11世紀頃に成立した歴史物語である。比較的、史実に沿っているといわれているが、実際はどうなのだろうか。いずれにしても、花山天皇の奇行を伝えるのは、後世に成った史料ばかりであることに注意すべきだろう。

主要参考文献

倉本一宏『敗者の平安王朝 皇位継承の闇』(KADOKAWA、2023年)。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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