感染症と災害、飢饉、元寇に苦しんだ武家政権の鎌倉時代
地震とともに始まった武家社会
400年も続いた平安時代は、グレゴリオ暦の1185年5月2日に壇ノ浦の戦いで源頼朝が平氏に勝利して終焉し、本格的な武家政権の鎌倉時代へと移行しました。壇ノ浦の戦いから3か月後の8月13日に文治地震(元暦地震)が起き、京は強い揺れに見舞われ大被害をこうむり、翌月、元号が元暦から文治に改元されました。地震被害の様子は、前報に記したように、方丈記に克明に記されています。
ちなみに、頼朝は、1147年に平治の乱で敗れた源義朝と熱田神宮大宮司の娘の間の三男として、名古屋にある熱田神宮西の邸宅で生まれたそうです。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に加え源頼朝も愛知で生を受けたことは、名古屋っ子の私にとってはちょっと誇らしいことです。
1189年には、頼朝と対立した源義経が殺されます。頼朝は、1192年に征夷大将軍に任じられ、その後、1199年に51歳で病没します。その間、御家人を中心とした武家社会の構築に勤しみます。頼朝の死後は、息子の頼家、実朝が順に将軍を務めましたが、1219年に実朝が暗殺され、源氏の将軍は途絶え、その後は、北条氏による執権政治が行われました。
災異改元が続いた鎌倉時代
1185年から1333年まで148年間続いた鎌倉時代には、50回の改元がありました。平均すると3年に一度も改元しています。一世一元の代始改元しかない今とは大きく異なります。50回の改元のうち災異改元が30回を占め、そのうち、地震に関わる改元が11回もあります。大化の改新以降1375年の歴史で地震に関わる改元は28回ですから、鎌倉時代の地震による改元の多さは特筆されます。他には、疾疫が11、旱魃が5、風災が4、水災と飢饉と火災に関わる改元がそれぞれ3回ずつありました。
ちなみに、前々回に紹介した平安時代は、391年間で88回の改元があり、半数の44回が災異改元でした。地震に関わるのが9回、旱魃・風水害に関わるのが18回、疾疫に関わるのが21回、飢饉に関わるのが2回ですから、鎌倉時代の地震、気象災害、飢饉の多さが分かります。
災害が続いた鎌倉初期だったが、承久の乱で幕府の力が強まる
1201年に大風雨が鎌倉を襲い、下総は高潮に見舞われます。さらに1206年に赤斑瘡(はしか)が流行して元久から建永、翌年1207年には疱瘡と大雨で建永から承元に改元されます。中国大陸では、この時期、頼朝の15歳年下のテムジンが勢力を拡大し、1206年にモンゴル帝国を樹立、チンギス・ハンの名を受けます。
1213年6月18日に鎌倉で地震があり、山崩れ、地裂け、舎屋の破潰などがあったようで、1214年に建暦から建保に改元されます。1218年には京で大火があって170町余りが焼失し、1219年には旱魃などもあったため、建保から承久に改元されます。災害続きの中、1221年に後鳥羽上皇が西国の武士と共に鎌倉幕府の討伐を試みたのが承久の乱です。これは失敗に終わり、逆に幕府の力が西日本にも及んで、武士の力が強まりました。
疫病と旱魃、大風雨による2度の大飢饉
1224年から1232年まで、5回連続で災異改元が行われます。1224年は地震と炎干、1225年は疱瘡、1228年は風災と疱瘡、1229年は風災と飢饉、1232年は風災、水災、飢饉による改元です。1228年には洪水で賀茂川が氾濫し、1231年は冷夏に見舞われました。冷害、洪水、旱魃のため、1230年から1231年にかけて、寛喜の大飢饉が発生して多くの人が命を落とし、疾病も流行しました。こういった中、布教活動をしたのが親鸞や道元です。1232年には、武家の法典として有名な御成敗式目も制定されました。
同様の飢饉は、1258年にも発生し、正嘉の飢饉と言われます。長雨や冷害、台風などが重なりました。飢饉の前の数年間は災異改元が毎年行われ、1256年に赤斑瘡の流行で建長から康元に、1257年には太政官庁などの焼失で康元から正嘉に改元されました。1256年には鎌倉で大風洪水が発生し、1257年には後述の正嘉の大地震が起き、鎌倉で甚大な被害となりました。そんな中、正嘉の飢饉が発生し、飢饉後には疫病も流行しました。このため、1259年に正嘉から正元に改元されます。
鎌倉での地震の続発
理科年表によると、鎌倉時代には、鎌倉周辺で地震が続発しました。1213年の鎌倉の地震に加え、1227年4月1日、1230年3月15日、1240年3月24日、1241年5月22日、1257年10月9日、1293年5月27日に鎌倉で被害を出した地震があったようです。1241年の地震は津波も伴ったようです。1257年の正嘉の地震では鎌倉の社寺の多くが倒壊し、液状化も発生しました。正嘉の飢饉や疫病の直前に起きた大地震です。
また、1293年の地震は、永仁関東地震とか永仁鎌倉地震と呼ばれ、建長寺をはじめ諸寺が倒壊・炎上しました。一説には2万3千人余の死者が出たとも言われます。当時の日本の人口は1000万人以下だったと思われますから、この数が本当なら大変な犠牲者数になります。この地震は、相模トラフ沿いの巨大地震や国府津―松田断層帯との関係が指摘されていますから、関東を中心に広域で被害が生じたと考えられます。この地震の後には、正応から永仁に災異改元されました。
運悪く、鎌倉時代は、相模トラフ沿いの巨大地震前後の地震の活動期に、震源近くに幕府を置いていたことになります。
元の成立と疫病
チンギス・ハンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝だったフビライ・ハンは、1271年にモンゴル帝国の国号を元と改め、複数の国家を元の大ハーンが統帥する連合国家へと再編しました。さらに、1276年には南宋との戦いにも勝利しました。広大な領土を支配したモンゴル帝国の時代以降、ユーラシア大陸全域で、陸路・海路による交易が盛んな平和な時代が訪れました。
盛んな交易の結果、1320年から1330年ごろに中国で流行していたペストが、1347年にイタリアのシチリア島に伝染し、その後、ヨーロッパ全域に感染が拡大しました。黒死病と呼ばれるこの感染症で、ヨーロッパの人口の1/3~2/3の人が亡くなり、農奴の待遇改善やルネッサンスの芽生えに繋がったと言われています。新型コロナウィルスの感染スピードに比べればゆっくりでしたが、世界のグローバル化が人類史上最悪のパンデミックを引き起こした点は共通しています。
2度の元寇で疲弊した御家人
1274年と1281年には、文永の役、弘安の役と、2度の元寇がありました。フビライ・ハンは、1268年に朝鮮半島の高麗を介して、日本との国交を望む国書を送ってきましたが、鎌倉幕府はそれを無視しました。このため、元は、日本を脅すため、1274年に900艘の船で博多に攻めてきました。文永の役です。戦い方の違いで苦戦するものの、日本軍は頑張り、朝鮮半島に戻る南風の季節風の影響もあって、元の軍隊は撤退しました。
その後、元は日本に何度も使節を送りますが、鎌倉幕府は使節を処刑したりしため、1281年に弘安の役が起きます。日本は防塁を築き、各地から御家人が集めて防御しました。元の軍隊は、東路軍の船900艘と江南軍の船3500艘、計4400艘の大軍でしたが、前者は高麗、後者は宋の兵士が多く戦意はさほど高くなかったようです。元軍は兵糧の補給線などの問題も抱えており、日本軍は夜討ちなどで善戦しました。そんな中、大風が吹いて、元の多くの船が沈んだとのことです。有名な神風伝説です。日本人を苦しめてきた台風が、日本を救ってくれました。
鎌倉幕府は何とか元寇を凌いだものの、外国軍に対する防御戦では、戦利品の土地はなく、戦った御家人たちに十分な恩賞を与えられませんでした。その後、1293年には、永仁関東地震が発生し、鎌倉などで甚大な被害になりました。直後には、平禅門の乱による兵火もあり、御家人は貧窮に苦しみました。このため、1297年に御家人の窮状を救うため永仁の徳政令が出されました。
近畿地方で地震が続発した鎌倉時代末期
鎌倉時代末期、近畿地方で地震が続発します。1299年6月1日、1317年2月24日、1325年12月5日、1331年8月15日と地震が起きています。1299年の地震では南禅寺金堂が倒れました。1317年の地震は京都が強く揺れ、1325年は正中地震と呼ばれ、滋賀・福井県境で起きた内陸直下の地震です。1331年は紀伊国での地震のようで紀伊半島では地殻変動も見られたようです。1317年の地震では正和から文保へ、正中地震の翌年の1326年には、地震と疫病により正中から嘉暦に改元が行われました。この間には、京都で疫病や大火も起きています。こういった中で、御家人や京都の貴族の不満も高まっていったようです。
1331年6月、後醍醐天皇が鎌倉幕府を打倒する元弘の乱を起こしました。一旦は、失敗して隠岐に流されますが、その後、楠木正成が挙兵し、足利高氏(のちの尊氏)の幕府への離反もあり、1333年7月に、御家人の新田義貞によって北条氏が討ち取られ、鎌倉幕府は滅亡しました。そして、後醍醐天皇による建武の新政が始まりました。
ちなみに、吉田兼好が「つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」と語った「徒然草」を世に出したのは1331年と言われます。徒然草を読んで当時の人の気持ちに接するのも良いと思います。
このように東国の武士たちによって作られた鎌倉時代は、度重なる自然災害と疫病、飢饉、元寇の襲来などに蹂躙され、再び後醍醐天皇を中心とする貴族の時代に戻ることになりました。