平安京さんぽシリーズ⑬ 京都の新旧が凝縮「七条通」を歩く(前編)
現在の七条通は平安京の七条大路にあたり、京都駅から北へ二つ目の東西の幹線道路です。中心部は東西本願寺の門前町として栄え、近代建築群も残ります。
東には平安末期には後白河上皇の御所が、戦国末期には豊臣秀吉の巨大な方広寺が築かれて大いに栄えました。西側の千本通りを越えると、かつては長閑な田園地帯でしたが、中央卸売市場の開業や市電の開通とともに整備がすすみました。
まず七条通の東端、通りの突き当りに総門を構える智積院からスタートしましょう。真言宗智山派の総本山で、もとは豊臣秀吉が亡き愛児・鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲寺(しょううんじ)がありましたが、慶長5(1600)年、徳川家康が紀州(現在の和歌山県)の根来寺の玄宥(げんゆう)僧正に土地を与え、根来寺の正式寺名にちなんで根来寺智積院としたことに始まります。その際、祥雲寺にあった建物・障壁画、豊国社の堂舎・梵鐘を受け継いでおり、その後、学僧が仏教を学ぶ教学道場として繁栄しました。
見どころは長谷川等伯・久蔵親子の国宝の障壁画と池泉鑑賞式の庭園です。近年はアジサイや紅葉の名所としても知られるようになりました。
智積院から七条通を西へ向かうと、平安末期は後白河上皇の御所、戦国末期は豊臣秀吉の方広寺が広大は敷地を占めていたエリアになります。
左手には後白河上皇の命によって建立された長大な本堂と、内部に1001体の千手観音立像や二十八部衆が祀られている三十三間堂があり、右手には近代建築としても名高い京都国立博物館があります。
秀吉時代は三十三間堂の南端までが方広寺の境内であり、現在も三十三間堂の南大門と太閤塀は、秀吉が残した数少ない建築として評価されています。
秀吉は京都国立博物館の北側にある豊国神社に祀られており、方広寺時代の巨大な石垣や「国家安康君臣豊楽」と刻まれた大阪の陣のきっかけとなった梵鐘も残り、さらに大仏殿が建っていた場所は大仏殿跡緑地として整備されています。
神社の門前には朝鮮出兵の敵方の兵士を供養した耳塚もあるので、足を延ばしてみるものいいでしょう。
続いて大正2年に架けられた鴨川最古の橋である七条大橋を渡ります。橋脚はアーチ型を採用するなど、全体的には欧風のハイカラな外観ですが、大変頑強に造られており、現在まで持ちこたえてきました。
昭和61年にリニューアルされた欄干には、三十三間堂の通し矢をモチーフにしたデザインが施されています。
橋の西詰には伏見稲荷大社の境外末社で、春の稲荷祭の際にこちらの氏子が松明を灯して神輿を迎えていたことから名がついた松明殿稲荷神社もあります。
次回、七条通後編では洛中に入っていきます。