投資における賭けの勝率を5割より高くするための方法
投資においては、不確実な未来への賭けという要素を排除できませんが、投資運用業として顧客の資産を賭け得るためには、いかなる条件を充足すべきか。
根拠のない決断
顧客の資産を運用する投資運用業では、投資判断は、合理的な推論に基づいて形成され、厳格な規律のもとで実行に移されなくてはならず、それには、熟練と呼ばれ得るだけの研鑚と経験の積み重ねが要求されるのです。しかし、投資対象が取引される市場においては、練達した運用者にとっても未知なることが常に起こり、合理的な推論によっては判断できない状況が生じます。そうしたときには、合理的根拠を欠いたとしても、何らかの決断をし、常態に反するとしても、何らかの行動をとらざるを得ないわけです。
また、そもそも、投資判断は投資対象の価値の分析評価に基づくわけですが、価値とは、投資対象が将来的に生み出す純キャッシュフローの現在価値であって、その算定には、将来の不確実な状況について、多くの仮定が置かれざるを得ません。ところが、仮定の設定は、その手法が合理的だとしても、所詮は仮に決めることなのですから、常に必ず根拠のない要素を含むのです。
投資判断における賭け
賭けとは、根拠のない決断であって、投資には、賭けが必ず伴います。このことは素直に認められるべきです。なぜなら、顧客の資産を運用する投資運用業においては、営業政策的に、根拠のない決断の存在を否定しようとする誘因が働きやすいわけですが、それは原子力発電において安全神話を振り撒くのと同じ過ちを犯すことだからです。
安全神話によって、かえって安全対策が疎かになることは、東京電力福島第一原子力発電所の事故が証明しています。安全対策が不断に進化し続けていくためには、安全神話を否定し、いかに安全対策を徹底しても、事故の可能性はゼロにならないことを常に自覚している必要があるのです。
危険性の自覚とは、原子力発電が賭けであることを正面から認めることであって、賭けの自覚があるからこそ、賭けは安全になっていくわけです。同様に、投資運用業においても、賭けの存在を自覚することによって、賭けと上手に付き合い、賭けを巧みに利用する技術が向上していくのです。
賭けが技術を進化させる
賭けは根拠のない決断ですから、賭けを繰り返しても、根拠と結果との関係を反省することはできず、学習の余地はないので、賭けは上達しません。しかし、自覚的に賭けることによって、投資運用業の基本である合理的判断と規律ある行動については、技術の進歩が見込めます。
そもそも、合理的推論を徹底することによってのみ、賭けの所在が特定され、賭けが特定されることによって、賭けが自覚され、そこに対する注意が不断に喚起されるのですから、当然のことながら、賭けの自覚は、合理的推論の徹底を前提にしているわけです。そして、賭けが自覚されるとき、賭けの危険の最小化が志向されて、合理的推論の技術を進歩させます。
これは、原子力発電において、徹底した技術の高度化の推進は、逆に、技術の限界を技術者に認識させ、賭けの所在が明らかにされることで、賭けが常に意識されるようになり、賭けの危険の最小化への努力が絶えず促されるようになるのと全く同じなのです。
また、賭けは未知なるものへの賭けであり、賭けの結果が既知なるものを拡大させる、これが熟練の本質です。熟練しても、賭けはなくなりませんし、賭けが上手になるわけでもありませんが、賭けを自覚的に繰り返すことで、投資対象の分析の技術は進化していきます。ただし、ここで重要なのは、賭けは決断であり、決断が規律のもとで実行に移されてこそ、熟練を生じることです。
規律ある賭け
賭けの勝率は、賭けの定義により、5割です。勝率を5割よりも高くするのは、賭けの技術ではありません。なぜなら、賭けには、賭けの定義により、技術はないからです。勝率を5割よりも高くするのは、規律であって、規律とは、決断を速やかに実行に移し、一貫して継続させるものです。
ところで、投資とは、投資対象の価値の分析評価ですが、より具体的には、評価された価値と市場で取引されている価格とを対比し、価値よりも低い価格で投資することです。少し紛らわしいですが、価値は、投資対象の絶対的価値を意味するほか、投資運用業の専門用語としては、価値が価格を上回っているとき、その差分を意味しています。
そこで、投資とは、専門用語としての価値があるものを買い、価値がなくなれば売却することになり、規律とは、価値があるものを速やかに買い、価値があり続ける限り一貫して保有し、価値がなくなれば必ず売るという原則を貫徹させる規範になります。
押し目待ちに押し目なし
例えば、運用者は、自己の分析評価の結論として、ある株式の銘柄に1000円の価値を付けるとし、その銘柄の株価は800円であるとします。運用者にとって、その銘柄を800円で買うことは、簡単なようでいて、実際には難しいのです。故に、昔から、押し目待ちに押し目なし、という相場格言があるわけです。
押し目とは、株価が上昇基調にある銘柄について、一時的に株価の小反落が生じることであって、株価上昇基調にあるから買いたい、でも、できれば押し目で買いたい、これが押し目待ちの心理です。押し目なしとは、そうして躊躇しているうちに、株価は上昇し続けて買いそびれるか、待ちきれずに高いところで買って失敗するか、どちらかだという意味です。
規律ある行動とは、1000円の価値に対して、価格が800円であれば、押し目を待たないこと、即ち、800円よりも安く買おうとして待つことなく、直ちに800円で買うことです。
心理的動揺に打ち克つ
現実は運用者の思い通りには動きませんし、運用者は常に心理的に動揺させられますから、800円で買って、600円に下がったら、狼狽して売りたくなるでしょう。しかし、規律は、運用者に対して、改めて価値の検証を行うことを求め、1000円であることが確認できれば、一貫した方針のもとで、保有の継続を命じることになります。
ここで重要なことは、運用者の自己の分析結果についての信念であり、確信であって、確信がなければ、価格が下落するなかで、価値判断を継続することはできません。確信は、盲信ではなく、調べを尽くしたという思いの先にあるものです。確信を得るために徹底した価値分析を行うからこそ、熟練が生じるのであり、価値分析の熟練から確信は形成されるのです。
規律に従って保有し、規律に従って売却する
人間の心理の働きとして、600円での売却はこらえても、800円に戻ったら、よかったと思って売りたくなるものです。しかし、規律は、600円のときと全く同じことを運用者に求めて、1000円の価値判断が不動であるのなら、一貫した方針のもとで、保有の継続を命じることになります。
また、1000円になったら、もっと上がると思って、保有を継続したくなるかもしれませんし、800円で買って、直ちに1000円に急騰すれば、保有を継続したくなるどころか、買い増しすら考えるかもしれません。しかし、規律は、運用者に価値判断の検証を求めて、1000円の評価が変わらないのなら、売却することを求めるのです。
投資において、時間は重要であって、期限のない投資判断はあり得ないのですから、1000円で価値と価格が一致するまでの見込み時間は、規律によって、事前に決められています。その時間が経過しても、1000円にならないのなら、1000円という価値判断は誤っていたと断ぜざるを得ないのですから、規律に従って売却することになります。
組織の規律と個人の賭け
自律で規律を遵守できるのは、達人に限られたことで、そのような達人は極めて稀です。投資運用業において、規律の遵守は組織の機能であって、逆に、規律を遵守させるために組織が存在するのです。しかし、投資の本質である賭けは、賭けの定義により、組織に帰属させることはできません。なぜなら、組織の決定には、必ず根拠が必要だからです。