2人目の犠牲者を出した、スコット隊の軌跡
20世紀初頭、多くの探検家が極地への到達を目指していました。
その中でスコット隊は南極点到達を目指していたのです。
この記事ではスコット隊が2人目の犠牲者を出すまでの軌跡について紹介していきます。
自らの身を犠牲にして隊の生還を願ったオーツ
3月8日、スコットたちはフーバーデポに到着しました。
ここから1トンデポまではまだ100キロ、疲弊した隊はオーツの歩調に合わせたゆっくりした進行を余儀なくされ、気温は零下40度まで下がっていたのです。
どうやら、冬が予想より早く南極に舞い戻ってきていたのです。
3月15日、オーツは限界に達し、自らの最期を覚悟しました。
エバンスが倒れた記憶が何度も頭をよぎり、自分もまた隊を遅らせているという自責の念が募っていきます。
陸軍軍人としての誇りをかけ、仲間の命を奪わぬようスコットに「明朝、自分を寝袋に残していって欲しい」と懇願するものの、スコットは静かに首を振るだけだったのです。
オーツは眠る前、自らにだけは朝が来ぬよう神に祈りました。
しかしその願いはかなわず3月16日の朝、オーツは目を覚ましました。
ブリザードがテントを打ち、気温は依然として零下40度、その凍える気温が彼の足をさらに蝕んでいたのです。
「ちょっと出てきます」と短く告げると、オーツは凍傷に苛まれた足を引きずり、一人でテントを出ました。
仲間たちは、その姿が吹雪に消えるのを見送ることしかできなかったのです。
32歳の誕生日の前日、オーツは自らを犠牲にして仲間の生還を願い出発したのです。
3月21日、残された3人は食糧不足と寒気のために歩を進められず、ついに1トンデポ手前18キロの地点に留まることとなりました。
スコットの右足は凍傷で深刻な状態にあり、ブリザードがテントを容赦なく叩き続ける中で、彼らは一縷の望みにかけてテントを設営したのです。
しかしそのテントは、彼らの最後の安息地となってしまったのです。
3月24日、バワーズとウィルソンはデポまで燃料と食糧を取りに行こうと試みたものの、激しい逆風に阻まれ、断念せざるを得なかったのです。
その後、食糧も燃料も底を尽き、帰還の望みは完全に断たれました。
助かる見込みが消えた後も彼らは生き延び、南極の零下40度の氷の世界で耐え続けたのです。
11月1日に基地を出発してから5ヶ月、厳寒の地に身を置いてきた屈強な男たちは、ついにこの地でその生涯を終える運命を受け入れるしかなりませんでした。
参考文献
アプスレイ・チェリー=ガラード著・加納一郎訳(1993)「世界最悪の旅 悲運のスコット南極探検隊」朝日文庫