樋口尚文の千夜千本 第122夜「運び屋」(クリント・イーストウッド監督)
老境だからこその無敵で自由すぎるヒーロー
イーストウッドが監督と主演を兼ねるのは、意外や『グラン・トリノ』以来10年ぶりだそうだが、この間続々と傑出した監督作を送り出していたタフネスには恐れ入るも、本作で俳優として登場したイーストウッドはさすがにずしっとヨワイを重ねた感じがあった。無理もない話で、イーストウッドはもうじき89歳。ところが今回の『運び屋』は、まさにその老け加減を存分に活かした映画であった!
わけあってヤバい品物の運び屋でバイトすることになったイーストウッドだが、組織の連中はその老いぼれ具合をのっけからナメてかかり、とにかくこんな奴に大事なブツを任せていいのかと気が気でない。こんな空気をよそに、幾度も幾度もブツを運ぶイーストウッドの道中は、お気に入りのナンバーをかけて鼻歌まじり、気ままな道草だらけのお気楽三昧で、それがまた若いワルたちの神経を逆なでする。しかしこのマイペースで人を喰ったドライブゆえに、まんまとヤバいブツの運搬作戦は完了し、時にはビビッて馬脚をあらわしそうなワルたちを窮地から救ったりする。
花の運搬の仕事に熱中し、たくさんのファンはいるものの家庭人としてはめちゃくちゃ、長年連れ添った嫁にも娘にもダメ人間の烙印を捺されているイーストウッド(なぜかかわいい孫娘にだけは支持されている、という設定が妙に頷ける)は、差別用語を連発したり、セクハラまがいの悪ふざけもしょっちゅう、スマホを渡してもメールひとつ打てない、まあ言わば日本でいえば「昭和の困ったオジサン」なのだが、なぜか胸のすくような痛快さがある。ふざけてばかりいるようだが、朝鮮戦争の殊勲者は若造のワルにすごまれたくらいでは動じず、マイペースであることについては筋金入りだ。
つまり、このイーストウッドは、老けこんだから終わった人ではなくて、それゆえに怖いものなしの自由人というわけである。今どきこんな快刀乱麻のヒーローはリアリティがなくて描き難いのだが、老いぼれであることによって『ペイルライダー』のガンマンくらい無敵になっている爺さんという設定は、ちょっとコロンブスの卵であった。そのダメ人間のヒーローが家族の絆の回復を図らんとする時にまた「運び屋」稼業が立ちはだかる設定や、彼を追うブラッドリー・クーパーの捜査官(『アメリカン・スナイパー』とはまた違ったスマートさで好演)、彼の天真爛漫な自由さを理解する組織のボス役のアンディ・ガルシア(かつての精悍なイメージとは真逆の、ふやけた肥りっぷりがいい)らのキャスティングも絶妙だ。
本作は、まさに図太く据わって泰然とした現在のイーストウッドそのままに、情理どころか笑いも涙もエロスも殺気も兼ね備えた、ひじょうにリッチな映画なのである(たぶん最恐の一瞬は節度とともに省かれていた気もするが)。