樋口尚文の千夜千本 第215夜『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督)
IMAXが実現するノーラン型古典映画
原爆開発に携わって波乱の人生を送ったJ・ロバート・オッペンハイマーの懊悩をめぐる作品という情報以外は入れないようにして観たが、そもそもそういうたぐいの作品なので披露試写がすべて大画面のIMAXだというのはどうなのだろう、と思った。研究の論戦や責任追及の糾弾のような場面ばかりが続きそうな地味な映画をあえて大型映像で見せて派手な売り方にしようというのだろうか、と勘繰ったりもした。しかも180分もあるそんな神経戦のような映画を大きな画面で見せられ続けたら、もう疲労困憊ではないかと。
ところがそんな不安を抱えつつ本作に見入っていると、私はじわじわと考え方を修正させられるのであった。確かにでかい画面ではあるのだが、かんじんなところはIMAXの画面アスペクト比が1.43:1だということかもしれない。これはスコープサイズよりもビスタサイズよりも実は古式ゆかしい1.33:1のスタンダードサイズに近いのだ(というかまるで同じ1.33:1を採用しているIMAX映画もある)。いずれにしても人物ににじり寄ったアップが画面中心を占めても最も据わりのいいサイズである。
したがって最新鋭の高精細画面と包み込まれるような音響から成る映画ではあれど、今どき珍しくこの「ほぼスタンダードサイズ」で語られる議論と糾弾の物語は、本作をオッペンハイマーという私人の思索の小箱のごとく完結させるのであった。つまりクリストファー・ノーランは、あたう限りの大画面で限りなくパーソナルな「小映画」を撮る、という試みに出た。思えば、あの大作の装いで売られた『ダンケルク』を撮る際も、ノーランが参考にしたのはエリッヒ・フォン・シュトロハイムの『グリード』やF・W・ムルナウの『サンライズ』など偏愛するサイレント映画であったわけで、ノーランがずっとIMAX映画にこだわるのも、実はその画面比率がこれらの古典映画とほぼ(場合によっては全く)同じだという点によるのではないか。
このたびの『オッペンハイマー』では、ノーランがこの「小映画」の実りを目指さんとしているのは明白で、時おりインサートされる荒ぶる原子のイメージもどこかサイレント作品の心象描写の前衛カットのようである。結果、この作品はオッペンハイマーの思索と懊悩にぐいぐいと接近したパーソナルな作品になったが、そこでノーランはオッペンハイマーという特異な才能を称揚するわけでも断罪するわけでもなく、科学者としての学究的野心から原爆開発にのめりこんだ彼と、自らの意向を超えたところでそれを大量殺戮に使われたことで精神が破綻した彼とを、等しく冷静なまなざしで見つめる。こんな両極を抱え込んだ、ややこしく困った存在が人間なのだとノーランは言わず語らずして印象づける。オッペンハイマーの性格がもたらす女難の遍歴もこのややこしさを増幅している。
当初本作の日本公開は危ぶまれたのは、広島・長崎の惨状が画として語られず、その悲劇にまつわる部分を素通りしているような印象を免れないから、という理由だっただろうか。だとするとそれはまるで見当違いな指摘である。自然にこの作品を観ていれば広島・長崎の壊滅状況が画として見えなくても、その喩としての衝撃的なイメージはいくつか印象的に表現されているし、オッペンハイマーが研究推進時のハイな様子から一転して自責の念に圧し潰され、虚無的になっていくさまはきっちり描かれていると思う。
また、原爆がもたらした凄惨な状況を画としてえんえん見せれば、それすなわち原爆の不幸、悲劇を描いたことになり、それが作者が主題に真摯に向き合った証しだと考えるのはナンセンスである。ノーランの場合、そういうわれわれがしばしば目にするお定まりの報道画像の引用やセットでの再現などでお茶を濁す通俗はまるで誠意とはみなせず、はなから考えていなかったはずである。
深刻な物語あるのみだが、名だたる人気俳優たちが機嫌よく演技を愉しんでいる感じも出ていて、とりわけロバート・ダウニー・Jrの屈折した敵役ぶりは演技の工夫も細かかった。そして美味しいところを持っていくアインシュタイン役を『戦場のメリークリスマス』のジョン・ロレンス中佐に扮したトム・コンティが演じていたのは嬉しかった。かつてクライテリオンのリリース作から個人的ベストテンを選ぶという趣向で、ノーランは『戦場のメリークリスマス』を第六位に選んでいたので、トム・コンティのこの扱いは監督による狙いに狙ったオマージュなのだろう。