【幕末こぼれ話】写真板の画像が消えた? 皇女和宮をめぐるミステリー
幕末に孝明天皇の妹として生まれた和宮は、19歳で徳川14代将軍・家茂に嫁いだ。政略結婚として有名な一件だが、死後80年ほどたって芝増上寺の墓が発掘調査された際、和宮の副葬品として一枚のガラス板写真が見つかった。
ところがガラス板に写っていた若い男性らしき画像は、外気にふれたためか、まもなく消えてしまったという。そこに写っていたのは夫の家茂だったのか。それとも・・・?
和宮と一緒に埋葬されていた写真画像消失のミステリーに迫る。
謎に包まれたガラス板写真
増上寺墓所の改装に伴う発掘調査のため、和宮の墓が掘り返されたのは昭和33年(1958)のこと。和宮の遺体は当然白骨化していたが、ちょうど胸に抱くような形で一枚のガラス板が発見された。
美術史学者のY先生が手に取って確認すると、そこにはうっすらと人物が写っており、当時使われていたガラス板写真のタネ板であることがわかった。その頃の写真撮影は、ガラス板に画像を写し取り、それをタネ板つまりネガフィルムのように使って紙に写真を焼き付ける方式だった。
Y先生はガラス板写真を一晩かけて調べ、「烏帽子をかぶったまだ17、8歳の童顔の夫・家茂らしい顔がかすかに見えた」と証言したが、ここで衝撃的な事件が起こった。なんと画像は、数日間のうちに薄れていき、ついに消え失せてしまったのである。
結局、画像は数人の関係者が目にしただけで、歴史の彼方に消え去ってしまったことになる。棺のなかで長期間密封されていたものが、外気にふれたために消失したと考えられたが、正確な理由はいまだに解明されていない。
それよりもこの事件は、もう一つの話題をわれわれに提供してくれることになった。すなわち、画像の人物は本当に家茂だったのか――ということである。
和宮には家茂とは別の婚約者がいた
なぜ家茂説が疑わしいのかというと、14代将軍・家茂は、生涯に写真を撮ったという記録がないからだ。家茂は慶応2年(1866)に21歳の若さで病死しているが、没するまでの間に写真を撮影した形跡がない。
家茂ほどの大物であれば、写真を撮ったのに現在伝わっていないということは考えられず、そんな状況のなかで和宮だけが写真を所持していたというのは明らかに不自然なのだ。
そこで、写真のもう一人の候補者が浮上してくる。実は和宮には、家茂に嫁ぐ前に婚約者がいたことがわかっている。同じ皇族の、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)だ。
和宮は幼い頃からこの有栖川宮と婚約をかわしており、実際、結婚の直前まで進んでいた。それが、政略結婚の話がにわかに持ち上がり、有栖川宮との婚約は解消されて、家茂に嫁ぐことになったのだった。
こうした背景を考えれば、まだ想いの残るかつての婚約者の写真を、和宮が大事に持っていたというのは決してありえない話ではないのである。
ちなみに、有栖川宮にしても和宮と婚約していた時期に写真を撮った形跡はない。しかし、有栖川宮は明治28年(1895)まで存命していたから、明治期には写真を何枚も撮っている。和宮が明治10年(1877)に没するまでの間に、写真を入手するのは容易なことだった。
和宮は、有栖川宮への想いを断ち切れずにいたのか、それとも実は家茂の写真というのが存在していたのか。いや、そもそもこのガラス板は本当に写真板だったのか――。幕末史を彩るミステリーは、いまだ解明されないままでいるのである。