<ミャンマー>クーデターと住民弾圧 「あたりまえの日常」にしてはならぬ (写真8枚+地図)
◆軍事政権と戦い続けた闘士
ミャンマーで起きた軍事クーデター。路上で抗議する若者たちに容赦なく実弾を撃ち込む兵士や、逃げ惑う人びとの姿。市民が撮影した生々しい映像は、ネットで世界に拡散した。国軍による住民弾圧は、突如として始まったわけではない。
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1988年の民主化運動、それに続く2007年のサフラン革命と、軍は力づくで民衆の声を封じてきた。そのたびに多くの命が失われた。
私がヤンゴンでミンコーナイン氏(当時49歳)に出会ったのは9年前。ミンコーナインとは彼の呼び名で「王を打ち倒す者」の意味を持つ。1988年の民主化運動を主導した学生リーダーの一人で、延べ20年間にわたって投獄されていた。ミャンマーが「民政移管」に転じ、獄中から解放されたばかりのときだった。
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刑務所では、水槽の中に長時間立たされ続けるなど、数々の拷問を受けた。絞首台に立つ亡霊の姿が、夢に幾度も現れるまでに精神が追い詰められたという。
釈放後は「民主化への思いを文化活動でも表現したい」と、軍政下で禁じられてきた「タンジャッ」という政治風刺を織り込んだ囃子歌(はやしうた)を復活させ、路上ライブを開いた。「権利を求めるなら国民は勇気を持とう!」仲間とともにリズムにあわせ、ミンコーナイン氏は声を張り上げ歌った。
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民主化運動のシンボルだったアウンサンスーチー氏が国会議員として国政に参加し、民主化へとシフトしたかに見えたこの国の変化に、私はかすかな期待すら感じていた。一方で、国軍が権力の座に居座ることに懸念を抱いた人も少なくなかった。
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◆軍政を信用しなかったカレンゲリラ
2012年、ミャンマー南東部のジャングルで、私は反政府ゲリラ、カレン民族解放軍(KNLA)第5旅団のボジョーへー司令官(当時47歳)を取材した。
ゲリラの多くは家族や親戚が国軍に殺されたり、村を焼かれたりした怒りから、自ら志願して解放軍に加わった。
民政移管を受け、半世紀以上続いた戦闘の停戦協定を結んだものの、ボジョーへー司令官は警戒を緩めなかった。「国軍は前線の境界線から部隊を撤収させようともしない。ならば停戦も和平交渉も意味がない」。彼は厳しい顔つきで言った。
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◆苦境のミャンマー市民に関心を
今回、軍部がクーデターを遂行したのは、スーチー氏率いる国民民主連盟が昨秋の選挙で大勝したことが背景にある。弾圧が日増しに強まるなか、今年4月、反軍政勢力は、国民統一政府(NUG)の樹立を宣言した。ミンコーナイン氏もこれを支持し、身を隠した先からネットを通して国民に支持を呼びかけた。
NUGはミャンマーの正統な政府になることを目指し、住民を弾圧から守るため、「国民防衛隊(PDF)」を創設するという。カレン民族解放軍などもこれを支援する予定だ。国際社会も力なく、大規模な内戦の懸念さえ広がる中、人びとが、そこまで追い詰められていることに胸が痛む。
イラクの宗派抗争やシリア内戦で、いくつもの悲しみの現場を取材してきた私は、ミャンマーの行く末を案じずにはいられない。シリア内戦が始まった当初、住民犠牲を大きく報じたメディアも、時間がたつにつれ、関心は薄れていった。
10年前も今も、人の命の重さは同じのはずなのに、シリアでの殺戮が「あたりまえの日常」になってしまった。ミャンマーの人びとが直面し続ける苦悩を「あたりまえの日常」にしてはならない。
(※本稿は毎日新聞大阪版の連載「漆黒を照らす」2021年7月20日付記事に加筆したものです)