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豊臣秀吉は容赦なく、女・子供を見せしめに磔刑とした

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪城豊国神社の豊臣秀吉公銅像と雪。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉の奇矯な性格が注目されている。今回は秀吉が容赦なく、女・子供を見せしめに磔刑とした例があるので、紹介することにしよう。

 天正5年(1577)10月、織田信長は毛利氏を叩くべく、豊臣秀吉に播磨への出陣を命じた。命を受けた秀吉は、早速、播磨に向けて出発した。秀吉は佐用郡へと兵を進めると、毛利氏に与した上月城(兵庫県宍粟市)に籠もる赤松七条家を討とうとした。。

 上月城は播磨に所在したが、美作・備前とも国境を接しており、重要な位置にあった。秀吉は上月城を落とすことで、毛利氏攻撃の拠点にしようと考えたのである。

 同年11月27日、黒田孝高の活躍により、上月城近くの福原城を落とした。福原城も播磨と美作・備前の国境付近に位置する城で、重要な拠点だった。そして、福原城から約1里(4キロメートル)離れた上月城に、秀吉の軍勢は迫ったのである。

 毛利氏に味方した宇喜多直家は、秀吉の軍勢に敗れ、逃走中に自軍の兵の首が619も討ち取られた。宇喜多勢を散々に打ち破った秀吉は、その余勢をかって上月城に迫り、激しい攻撃を行った。

 その戦いの状況は、秀吉の書状(「下村文書」)に次のように記されている。

 (宇喜多氏との)合戦場から引き返し、いよいよ七条城(=上月城)を取り詰めた。水の手を奪ったこともあって、上月城の籠城者からいろいろと詫びを入れてきたが、(秀吉は)受け入れなかった。

 そして、返り猪垣を三重にして城外への逃亡を防ぎ、諸口から攻撃を仕掛け、十二月三日に城を落とした。

 敵兵の首を悉く刎ね、その上に敵方への見せしめとして、女・子供二百人余を播磨・美作・備前の境目において、子供を串刺しにして、女を磔にして並べ置いたのである。

 秀吉の態度は強硬であった。城兵たちの命乞いを受け入れることなく、逆に逃げられないように柵を巡らすと、次々と敵兵の首を刎ねたのである。さらに見せしめとして、女・子供をそれぞれ串刺しにし、磔にして晒し者にするなど、残虐の限りを尽くしたのである。

 非戦闘員がこのように残酷なかたちで処刑される例は、そう多くはない。「ひょうきん」あるいは「親しみやすい」という、これまでの秀吉のイメージが壊れるような措置である。果たして大河ドラマでは、この蛮行が描かれるだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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