小牧・長久手の戦い前夜。池田恒興が注目された当然の理由
今回の大河ドラマ「どうする家康」は、小牧・長久手の戦いを控えて、池田恒興の存在がクローズアップされた。なぜ、恒興の存在が注目されたのか、検証することにしよう。
池田恒興は、天文5年(1536)の誕生。信輝とも言われるが、確証はない。池田恒利と織田信長の乳母・養徳院の間に生まれたので、信長とは乳兄弟の関係にあった。
恒興は信長没後に宿老衆の一人に加えられたが、それは乳兄弟の関係が少なからず作用したと考えられる。
天正10年(1582)5月、恒興は羽柴秀吉の援軍として、中国の毛利氏討伐を命じられた(『信長公記』)。明智光秀が同様に中国行きを命じられたので、恒興は光秀の与力だったと解する向きもある。
しかし、実際は細川、塩川、高山、中川の各氏と同じく、単独で秀吉の救援に向かったと考えるべきだろう。光秀の与力と書いている史料はない。
同年6月2日、本能寺の変が勃発するが、直前の恒興の動きはよくわかっていない。勢力基盤のある摂津にいたのは、間違いないだろう。
その後、上洛する秀吉軍と合流し、山崎の戦いで光秀軍を撃破した。戦後、秀吉らと入京したのは明らかであるが、その後の動きは詳しくわからない。
恒興が秀吉とともに光秀を討ったことは、かなり重要な意義があったと考えられる。恒興は光秀を討った軍功が評価され、清須会議のメンバーの1人になったと考えられる。
翌年5月25日、秀吉は大坂の地を池田恒興から譲られた(『多聞院日記』)。その代わりに、恒興は大垣(岐阜県大垣市)、伊丹(兵庫県伊丹市)にいた子の元助は岐阜(岐阜市)を与えられた(『柴田退治記』など)。
同年11月5日付の秀吉書状によると、「大坂は五畿内の要衝にあるので、居城に定めた」とある(「常願寺文書」)。秀吉は、大坂の重要性を認識していたのである。
恒興は織田家に近しい人物だったが、本能寺の変後はバリバリの秀吉与党だった。
秀吉が恒興に大垣を与えたのは、同地が東国と西国の境目であり、重要な場所だと認識していたからだろう。それは、元助に与えた岐阜も同じことである。
織田信雄は恒興と織田家の関係から、味方になってくれると考えたかもしれなかったが、それは甘い希望的な観測に過ぎなかったのである。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)