長野久義、進藤勇也らを育てた「育成の名将」が監督復帰 新天地で目指す理想の高校野球とは
福岡県の私立筑陽学園高の前監督で総監督を務めていた江口祐司氏(61歳)が3月15日付で同校を退職。3月16日から私立山口県桜ケ丘高校の監督として指揮を執ることが分かった。
選手の特性を把握しての進路選び
江口氏は「育成の名将」と呼んで過言ではない人物だ。
福岡県立久留米高から日体大を経て、1986年に西日本短大付高のコーチに就任し1992年には夏の甲子園で全国制覇を果たした。その後、熊本県の私立城北高の監督を務め1995年に春夏連続で甲子園に出場すると、筑陽学園高では部長を経て1999年から2022年まで監督を務め、甲子園には初出場を含め3度導いた。
こうして強豪校や甲子園出場校に育て上げた実績はもちろんだが、それ以上に選手育成の実績が顕著だ。
【西日本短大付高】
新庄剛志監督(元阪神→メッツ→ジャイアンツ→メッツ→日本ハム外野手/日本ハム監督)
【筑陽学園】
長野久義(日大→Honda→巨人→広島→巨人外野手)
谷川昌希(東農大→九州三菱自動車→阪神→日本ハム投手/阪神打撃投手)
西舘昂汰(専修大→ヤクルト投手※昨秋ドラフト1位指名)
進藤勇也(上武大→日本ハム捕手※昨秋ドラフト2位指名)
NPBだけでもこれだけの選手を輩出しており、社会人球界でも井上彰吾(日大→Honda外野手)、下川知弥(駒澤大→NTT東日本内野手)らが強豪チームで第一線を戦っている。
ここまで紹介した選手たちの経歴からも分かるように、様々なポジションの選手が様々な大学を経ての活躍が目立つ。これは江口氏の選手と進路先の指導者、双方の個性や特徴を見極めた判断があってこそだ。
「適材適所のところに送るということは、とても重要にしていました。教員として生活面も見ていましたから人間性も踏まえ、相手方の監督も長いお付き合いの方が多いので、お人柄も踏まえて選手に提案していました」
例えば進藤の場合は、いくつかの大学に練習参加させたところ、進藤自身が上武大を希望していたことに加え、惚れ込んだ人物を我慢強く指導や起用をしてくれる谷口英規監督のもとが最適だと考えた。期待通りに下級生時から起用され活躍すると、3年秋から主将になり貴重な経験を積んだ。
「覚悟が決まっていたので、上武大に行けばプロ野球選手になれると確信しました。(主将を経験して)表に出ることが増えましたし、今の彼と話していると、高校時代までに無い経験をして、人としての引き出しが増えた気がしますね」
一方、西舘は「末っ子なので自信満々というより大人しいところがありました。だから“耐えて耐えて”・・・というよりも “頑張ろう!”と言ってくれる人がいた方が良いタイプなんです。そこで30年以上付き合いがある専修大の齋藤正直監督にお願いしました」と振り返る。
中学時代に無名だった選手をプロに
西舘と進藤の2人が3年生となった2019年は、筑陽学園高として史上初の春夏連続甲子園出場を果たし、春は8強にまで躍進を遂げたが、彼らは中学時代に目立たない選手だった。
西舘は、もともとは体が小さく、投手を始めたのは年間で約15センチも身長が伸びた中学3年から。将来性を江口氏に買われて入学した。
西舘は当時を苦笑いで振り返る。
「筑陽学園では、技術面を教わるというよりも、人間性であったり野球に取り組む姿勢であったりをすごくうるさく・・・、いや注意してくださる監督でした(笑)スポーツクラスの担任も3年間ずっとしていて私生活の面からずっと一緒にいることが多かったので、当時はすごく苦痛でした(笑)」
江口氏の熱意や愛情が「高校卒業間際には分かりました」と振り返る。
「結局、卒業するころには“良い先生だったな”っていう風に思いましたし“人として成長させてくれる人”だと思っていて尊敬しています。でもやっぱり今でも怖いですけどね(笑)」
進藤も中学時代は控え捕手。それでも江口氏は「試合に出られなくても我慢強く取り組んでいた姿に伸びしろを感じたんです」「キャッチングも安定していましたし、受け答えが落ち着いていて、しっかり会話ができていました」と心技体で見込んだ。すると、その期待に応えるように1年秋から正捕手となり、チームの歴史を変える立役者となった。進藤もまた江口氏に「野球選手としてだけでなく、人としても大きく成長できました。周りの仲間や指導者、環境に恵まれて、甲子園に春夏連続で出場でき、特別な経験をさせてもらえました」と感謝の言葉を惜しまない。
61歳にして新たな挑戦
そんな充実した指導者人生を送った江口氏は2022年夏での勇退以降は、総監督として筑陽学園高をバックアップしていたが、今回の新たな挑戦の背景はどんなものだったのか。
山口県桜ケ丘高の元監督で教頭を務めている人物が筑陽学園での教え子であることに加え、指導者人生をこのまま終わらせたくない思いも強かったのだという。
「筑陽学園にいて何の不満もありませんでした。時間も十分にあった。でも、充実感だけ無いような状態だったんです。限られた人生の中で、最後に負けたまま(2022年夏に福岡大会準優勝)で終わっていいのかな?まだ辞めるなということじゃないかな?と思いました」
そして、新天地での構想を尋ねると、ほとばしる情熱が溢れた。
「山口県の習慣や風土がまだ分からないので勉強し、その土地に馴染んだ地元に愛されるチーム作りをしたいですね。今は県外の選手が多いですが、ゆくゆくは県内の選手もたくさん増えてくれたらと思っています」
「高校で野球を終わらせたくない。長く続けられるように、大学や社会人でも通用するように、技術だけでなく人間性も身につけた選手を育てたいです」
「育成の名将」が充電期間を経て心機一転、どんなチームを作るのか、どんな人材を輩出するのか。その手腕に期待だ。