【戦国こぼれ話】全国の「現存天守」で一番好きな城ランキング1位の国宝「松本城」はどんな城か
最近の調査によると、全国の「現存天守」で一番好きな城ランキング1位が国宝「松本城」だったという。いったい、松本城とはどんな城なのだろうか。考えることにしよう。
■松本城の前史
国宝・松本城は、現在の長野県松本市に所在する平城である。国宝に指定されたのは、昭和27年(1952)3月29日のことだ。
室町時代に坂西氏がこの地に居館を築き、深志郷を支配していた。永正元年(1504)、同じ場所に島立右近貞永が深志城を築城したと伝わる。しかし、深志城と松本城との連続性は不明である。
天文19年(1550)、甲斐の戦国大名・武田信玄は林城(長野県松本市)主の小笠原長時を放逐し、深志城を北信濃侵攻の拠点とした。
天正10(1582)3月、織田信長が武田氏を滅ぼすと、深志城に木曽義昌が入城。その後、小笠原洞雪が上杉景勝の支援を受けて、深志城に入ったのである。
■松本城の誕生
のちに、小笠原長時の嫡子・貞慶が深志城を奪還して城主となり、名称の深志を松本と改めた。天正13年(1585)、貞慶は宿城の地割をし、堀を掘って土手を築き、三の曲輪に縄張を行った。
さらに、5ヵ所の大城戸を四方に構えて南門と追手を定めた。そして、小路を割って、侍屋敷を次々と建てたのである。こうして松本城の城下町が整備されたのである。
天正18年(1590)8月、貞慶は古河(茨城県古河市)へ移り、豊臣秀吉の家臣・石川数正が松本城へ入った。松本城天守群は文禄2・3年(1593・4)にかけて、数正・康長父子によって築造されたという。
天守群は、大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の五棟で形成された。大天守と乾小天守は渡櫓で繋がれ、月見櫓と辰巳附櫓が複合した連結複合式の天守として知られている。
慶長18年(1613)の大久保長安事件(長安の死後に不正が露見し、関係者が処罰された事件)で、石川康長が連座して改易になると、信濃飯田(長野県飯田市)から小笠原秀政が入った。
しかし、その2年後の大坂夏の陣で小笠原秀政・忠脩親子が戦死したので、元和3年(1617)に戸田康長が高崎(群馬県高崎市)から入封したのである。
■近世以後の松本城
その後、城主は松平氏、水野氏に代わり、享保11年(1726)から幕末維新期まで戸田氏が城主を務めた。その間の松平直政の時代には、辰巳附櫓や月見櫓を天守に増設するなど、城内外の整備が行われた。
享保12年(1727)には、失火で本丸御殿を全焼する。以後、戸田氏は古山地御殿を拡張し、新御殿を建設して使用した。
結局、本丸御殿は、再建されることはなかった。安永5年(1775)の松本町大火では、三の丸・二の丸の一部と城下町南部を焼失するなど、被害はさらに大きくなった。
明治2年(1869)、藩主の戸田光則は版籍を奉還して松本藩知事となり、その2年後に廃藩置県で松本県が誕生した。
同年、城郭の諸門が壊され、兵部省が天守を接収した。さらに筑摩県が設置されると、二の丸御殿が県庁になったのである。