建武政権を批判した「二条河原落書」とは。たび重なる政治不信の顛末
政治資金、各種ハラスメント、失言によって、政治不信が高まっている。
今から約700年前に誕生した建武政権も厳しい批判にさらされ、その事実を風刺した「二条河原落書」が話題になった。いったい、「二条河原落書」には、何が書かれていたのであろうか。
建武元年(1334)8月、京都の二条河原に落書(らくしょ)が掲げられた。落書とは、匿名で時の権力者に批判を行ったり、社会風潮への風刺やあざけりを書き記した文書である。わざと人目に触れる場所に落とし人に拾わせたり、人の家の門壁などに貼り付けるなどして、人々の間に広まった。
平安初期から落書は見られ、中には詩歌形式のものあり、それは落首(らくしゅ)と呼ばれた。「二条河原落書」は作者不詳ながらも、建武政権の欺瞞を鋭く指摘しており、相当な知識人が書いたものだといわれている。では、「二条河原落書」には、どのようなことが書かれていたのであろうか。
二条河原落書は「此比(このごろ)都ニハヤル物」という、七五調のリズムで綴られている。内容は世相を反映し、建武政権を手厳しく批判した極めて辛らつな内容だった。たとえば、「夜討強盗謀綸旨(にせりんじ)」という一節がある。夜討や強盗はわかるが、偽綸旨とはどのようなものなのか。
建武政権は天皇親政を基本理念とし、後醍醐天皇の意向がもっとも尊重された。とりわけ、後醍醐天皇よりも前に決まったことは無効にするとされ、特に綸旨が重要視された。
綸旨とは、天皇の意が反映された文書のことで、蔵人が作成したものである。訴訟においては、綸旨の有無が判決を左右することもあり、偽物の綸旨が数多く作成された。「二条河原落書」では、その事実を痛烈に皮肉ったのである。
「下克上スル成出者」という一節は、身分秩序の崩壊を皮肉ったものである。そもそも、武家、公家ともに、家格秩序は強固であり、下位者が上位者を飛び越えて出世することは困難だった。
しかし、建武政権下では、後醍醐天皇の政治方針として、従来の家格によらない人材登用が採用された。それゆえ、中下級貴族や無名武士が登用されたのである。
この続きには「器用堪否(きようたんぴ)沙汰モナク」とある。器用堪否とは、能力の有無を確認することなく、誰でも採用するという意味である。
人々が不信感を抱くような人事が平然と行われたため、建武政権を痛烈に皮肉っているのだ。たしかに、上級貴族の間には、人事に関する不満が渦巻いていた。
やがて、建武政権から人々の心は離れ、翌年には足利尊氏が離反して崩壊した。後醍醐天皇の政治的理想とは、あくまで個人のものであって、万民が共有するものではなかった。二条河原落書の作者は、建武政権の本質を鋭く見抜いていたのである。