鉄道建設現場を襲う、ツァボの人食いライオン
野生動物が人間を襲撃する事件はしばしば起こっており、時として動物の犠牲になる人間もいます。
その中でもツァボの人食いライオンが起こした襲撃事件では、多くの人が犠牲になったのです。
この記事では青年将校と死闘を繰り広げたツァボの人食いライオンについて紹介していきます。
鉄道建設現場を襲うライオン
1896年、イギリスが植民地政策の一環としてウガンダ鉄道の建設を計画し、モンバサからビクトリア湖畔のキスムまでの路線敷設を開始しました。
このプロジェクトは、アフリカ東部内陸部の経済発展を促進し、植民地支配を強化するための重要なインフラ整備だったのです。
そんな中ツァボ川に鉄橋を架ける際、突如2頭の人食いライオンが出現し、労働者たちを次々と襲撃する事件が起こります。
この出来事は、イギリス軍の青年将校のジョン・ヘンリー・パターソンが1898年に鉄道現場総監督としてツァボに赴任して間もない頃に発生しました。
着任早々、労働者の行方不明事件が起こり、初めはパターソンも懐疑的でした。
しかし、着任後わずか3週間で、労働者の頭であるウンガン・シンがライオンに襲われ、テントから連れ去られたことで、状況が一変します。
目撃者の証言によると、ライオンは夜間、突然テントに首を突っ込んでウンガン・シンの喉元を食いちぎり、そのまま連れ去ったのです。
パターソンはすぐに追跡を開始し、遺体は凄惨な状況で発見されました。ライオンたちは遺体を引き裂き、争った跡が残されていました。
この事件以降も、ライオンによる襲撃は止まりませんでした。
パターソンは夜間、樹上で見張りをし、労働者たちの安全を確保しようと試みますが、ライオンは巧妙にキャンプを襲撃し、次々と犠牲者を増やしていったのです。
キャンプ地に「ボマ」と呼ばれるトゲのある垣根を張り巡らせるなどの対策も行われましたが、ライオンはその弱点を突き、侵入してきました。
労働者たちは、最初は仲間が犠牲になることを深刻に受け止めていませんでした。
というのも、2000人から3000人もの労働者が広範囲に散らばって作業をしており、ライオンの犠牲になる確率は低いと考えていたからです。
しかし、ライオンの襲撃が続くにつれ、現場の恐怖は増していきました。
この事件は「ツァボの人食いライオン」として知られるようになり、パターソンがライオンを仕留めるまで続きました。
事件は鉄道建設に多大な影響を与えたばかりか、当時の植民地支配の厳しさや労働環境の過酷さを象徴するものとして、歴史に刻まれています。