政治はアートである
「政治はアートである。サイエンスにあらず」と書いたのは、明治期の外務大臣陸奥宗光である。幕末に坂本龍馬の腹心として「海援隊」を組織し、明治維新後は政府のやり方に不満を抱いて政府転覆を企て投獄されたが、伊藤博文の誘いにより一転して明治政府の外務大臣となった。
徳川幕府がアメリカの圧力で結ばされた不平等条約の改正に辣腕を振るい「カミソリ大臣」と呼ばれたが、一方で官僚政治と闘う自由民権運動の星享と親交を結び、政党政治家原敬を育てた。その陸奥が伊藤博文に送った手紙の中に冒頭の言葉がある。
意味するところは「政治は理屈や理論ではなく、職人芸の技(わざ)の世界」という事である。どんなに正しい理屈を言っても実現しなければ政治にならない。実現させる「技(わざ)」こそが政治なのである。
私の経験で言えば、政治は「理屈」より「経験」、「知識」よりも「知恵」が大事で、「手触りの感触」や「感性の鋭さ」を磨き、「俯瞰で見る能力」と「歴史に学ぶ姿勢」が必要である。そして「目的に真っ直ぐ進む」より「紆余曲折をして見せる」方がゴールに先に到着できる。
ところがそれを理解できない人種がいる。特に自分を「インテリ(知識人)」と思っている人種に多い。そういう人種は理屈に合わない事を拒絶する。しかし世の中はそもそも理屈に合わない事で成り立っている。その不都合な世界を調整するために政治がある。理屈通りに物事が進めば政治の役割は小さくなる。
理屈に合わない世界を理屈に近づけるのに理屈を言うだけでは解決しない。理屈に合わない事情が存在する理由を一つずつ片づけていくしかない。そのためには紆余曲折が必要となり時間もかかる。しかしアートよりもサイエンスの目で政治を見ると、そうした動きはいちいち批判の対象になる。「政治は何をやってんだ!」となる。
中には「政治こそ諸悪の根源」と言う人もいる。そういう人には「自分の顔を鏡でよく見てみろ」と言いたくなる。鏡に映った顔こそが諸悪の根源を生み出した顔なのだ。民主主義は国民の選択が政治を作る。政治が悪なら国民も悪という事になる。政治を「駄目だ」と言っても人は政治と無縁では生きられない。政治に唾を吐けば、唾は自分に返ってくる。政治を批判するだけでは何の解決にもならないのである。
ところが困った事は日本のメディアがサイエンスの目でしか政治を見ない事である。世界にはクオリティ・ペーパーや政治専門のテレビなど「大衆」を相手にしないメディアがあり、アートの目で政治を見る人間を相手に政治報道しているが、この国には「大衆」をお客様にする新聞とテレビしかない。売り上げを伸ばすためには「大衆」に「うっぷん晴らし」をさせる必要があり、そこで権力を持つ政治家叩きが有力な売り物になる。
こうして「知識人」を自認する新聞社の解説委員やテレビのコメンテイターは「これほどひどい政治はない」と悲憤慷慨して見せ、国民は「日本の政治は駄目なんだ」と暗澹たる思いに沈み込む。しかし私の見るところ日本の政治だけがおかしい訳ではない。世界中の政治がみな不安定で、それは冷戦後の世界構造がそうさせている。今は世界中の政治が手探りしているのである。
冷戦時代の日本は自民、社会の二大政党が「万年与党」と「万年野党」という極めて「安定した時代」を作り出した。しかし冷戦が終わると政権交代なき政治構造は継続する事が出来なくなる。それまで与党自民党を支持してきたアメリカがその必要を認めなくなったからである。
冷戦の終焉と共にイデオロギー対立も終わり、日本にもアメリカやイギリスのように政権交代可能な政治構造が求められるようになった。そこで自民、民主の二大政党制が作り出され、3年前に初めて政権交代が実現した。ところが1日も早く政権に復帰したい自民党は党派性を強め、それに「ねじれ」構造が絡まって、日本政治は「何も決められない」機能不全に陥った。
今、我々の目の前で行われているのはその機能不全状態から抜け出すための再編劇である。自民対社会の安定構造から自民対民主の不安定構造を経て、次なる政治構造に脱皮する「産みの苦しみ」を味わっているのである。それが最終的に二大政党制になるか、あるいはヨーロッパ型の多党制になるかは分からないが、そのためのプレイヤーは出揃いつつある。
今、メディアがやるべきは国民生活にマイナスを及ぼす政治家叩きではなく、野田佳彦、安倍晋三、小沢一郎、石原慎太郎、橋下徹ら各氏の中で、次の時代を作る「アーティスト(政治の職人)」になるのは誰かを国民に探させる材料を提供する事である。