【河内長野市】謎のバス停「むくの本」について調べてみると、椋本土居という存在と名字にある椋本のことが
当たり前ですが一般的にバス停の名称は、一目見て意味のわかるものが多いですね。例えば河内長野駅の前にあるから「河内長野駅前」、観心寺の近くにあるから「観心寺」、滝畑ダムにあるから「滝畑ダム」といった具合です。
しかし、どうしても意味がわからないバス停があります。それは「むくの本」バス停です。場所は錦町と栄町の中間にありますし、近くに「むくの本」と称したホールのようなものがあるという訳ではありません。いったいなぜこのような名前が付いているのでしょうか?
最初はむくの本バス停から隣の錦町バス停まで歩いてみることにしました。経験上歩いてみれば何か見えてくるものがあると考えたからです。ちなみにむくの本の隣の錦町も、逆方向の長野車庫前も一目で分かるバス停名ですね。
しかし歩いただけでは「むくの本」に関する情報は何も出てきません。ところが、後日むくの本の周辺を地図で調べると、ある特定のキーワードが浮かんできました。それは「椋本」です。椋は「むく」と読めるので、「椋本」が「むくの本」と関係しているようにも思えます。
ちなみに、椋本を名乗るスポットは次のようなところがあります。
ということで、むくの本バス停には、周辺に多くの名字がある「椋本」さんが関係しそうだという事がわかりました。ムクドリやむくのきは関係なさそうです。
ただそれだけでは、いまいち根拠に乏しい気がしたので、河内長野市の文化財保護課に問い合わせてみました。すると次のような回答をいただきました。
ということで、図書館でこちらの本(報告書)に記載している関係場所を閲覧しました。河内長野市とその周辺に残る城館跡の分布についてまとめられた報告書で、この中に椋本土居についての記載を見つけました。ちなみに土居とは土を積み上げてつくった堤のこと。
報告書によると、楠本土居があるのは河内長野市栄町椋本垣内にある土塁で、現在は宅地です。石川北岸の台地上、烏帽子形城の対岸にあります。椋本土居を城として見たときの城主は中世の土豪・椋本氏と伝わるも詳細は不明。
現在は50*50メートルの敷地内に3つの宅地で分割していますが、これは椋本家の本家・分家関係と思われるとのこと。ただ椋本土居が居館ではなく、河川から家屋を護るために近世以降に作られた可能性もあるそうです。
といった情報を得たので、椋本土居を実際に見てみることにしました。
むくの本バス停からは南に向かう道を歩いていきます。
椋本土居があるとされる場所に到着。ただし、個人宅でかつ塀や生垣に覆われているので内部の様子はわかりません。
他で椋本土居を紹介している写真と合わせてみました。左側の生垣の中に土居があるものと推測されます。
また椋本氏という中世の土豪の可能性があるという事になります。
土豪を調べると特定地域の土地の小豪族と出てきます。地侍という表現もあり、豊臣秀吉の刀狩りの前まで武士と農民の区別があいまいだったので、椋本氏は普段は農作物を作り、戦があれば武器を持って戦いに参加していた一族だったのでしょう。
報告書では土居が中世のものかどうかもあいまいなので何とも言えませんが、もしそうだったら烏帽子形城のちょうど真北にあるので、烏帽子形に攻め入る敵の防衛線としての役割を果たしていたのかもしれません。
椋本氏には次の三つのルーツがあるそうです。
- ①三重県津市芸濃町椋本発祥。鎌倉時代に記録のある地名。京都府舞鶴市泉源寺では三重県伊勢市の伊勢神宮に向かう途中で宿泊した場所から江戸時代に称したと伝える。
- ②福岡県飯塚市椋本発祥。戦国時代に記録のある地名。
- ③奈良県五條市岡町の小字の椋本から発祥。同地付近に分布あり。
推測ですが、河内長野の椋本氏は③奈良県五條の椋本氏の流れから来たような気がします。さらに驚いた事に現在の椋本さんの多い地域を調べた資料(外部リンク)によると都道府県では大阪府で、市町村になると河内長野市がいちばん多いそうです。驚きですね。
という事で謎のバス停名「むくの本」について調べてみました。バス停の近くには「椋本(むくもと)」さんが多く、椋本土居と呼ばれるものがあり、市の調査報告書に記載されている歴史的な意義があるという点、烏帽子形城の北にあるという事から歴史的なロマンを感じるバス停の名前という気がしました。
むくの本バス停
住所:大阪府河内長野市錦町23
アクセス:南海・近鉄河内長野駅からバス むくの本バス停すぐ
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